本心<299>

2020年7月10日 05時00分 (7月14日 01時27分更新)
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

第九章 本心

 意外と、早く片づいた夕食だった。
 食器を洗うと、この日は僕が先に入浴した。パジャマに着替えて、リヴィングに戻ってくると、三好はヘッドセットをつけて、<母>と話し込んでいた。ここを出て行く報告をしているらしい。その気になれば、三好はいつでも、どこからでも、<母>に会えるのだったが。僕は、自分でその煩わしい説明をせずに済んだことを喜んだ。
 一旦(いったん)、自室に戻り、昨日の藤原亮治との対面以降、胸に蟠(わだかま)っている感情を整理しようとしたが、うまく言葉にならなかった。
 僕はまた、この文章の続きを書き始めて、到頭(とうとう)、今現在に追いつくこととなった。つまり、初めて、ここから先、何を書くべきかを知らない状態になったのだった。
 三好は、十一時くらいには、もう入浴も終えて、部屋に戻った様子だった。リヴィングには、彼女が一旦立ち寄ったらしいシャンプーの香りが残っていた。
 僕は、冷えかけた部屋にまた暖房をつけて、コーヒーを淹(い)れた。ソファでゆっくり飲んだあとで、マグカップを置き、ヘッドセットをつけた。
 目を閉じ、開けると、<母>が、つい今し方までは無人だったテーブルで、独り縫い物をしていた。
「――何してるの?」
「服のボタンが取れちゃったから、つけてたのよ。――丁度(ちょうど)、終わったところ。」
 そう言って、<母>は玉留めをした糸を切り、顔を上げた。
「そう言えば、三好さん、引っ越すんだって? さっき聞いたのよ。」
「ああ、……そう。明日、手伝う予定。そんなに荷物もないけど。」
「そう?……朔也(さくや)はそれでいいの?」
 三好は一体、<母>とどんな話をしたのだろうかと、僕は訝(いぶか)った。以前にもあったことだが、三好は<母>を介して、僕に何かを伝えようとしているのではあるまいか?
 <母>が勝手に、そんな心配をするはずがなかった。しかし、若い男女が二人で一緒に住んでいて、片方が出て行くとなれば、普通に詮索することかもしれないという気もした。

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