コロナ禍のク・セ・ジュ 週のはじめに考える

2020年6月28日 05時00分 (6月28日 05時01分更新)

 まずは、ずいぶん前に伊丹十三さんの『ヨーロッパ退屈日記』で読んだ英国の小話を紹介させてください。本当は細かな描写あってこそ効果いや増す長い長いジョークらしいですが、伊丹版を、さらに大胆にかいつまむと…。
 −ある男が列車の個室客車に乗り込んだ。向かいの席の男性を見て、驚愕(きょうがく)する。山高帽をかぶったいかにも英国紳士然とした男性なのだが、片耳に半分ほど皮をむいたバナナが詰まっていたのである。窓から入る風がその皮を絶え間なくはためかせている。

英国紳士の耳にバナナ

 顔を見るのは非礼なので、男はさっと新聞を広げた。記事を読みながら考えを巡らす。忠告してやるか? しかし、どう言う? もしや何か深い訳でもあるのか? 例えば新型の補聴器だったら? まさか…。新聞を隅から隅まで読んでしまっても、まだ目的の駅ははるか先。結局、男は意を決して声を掛ける。
 「まことに失礼ですが」。紳士は「えっ、何とおっしゃいました?」。しかたなく男は「まことに失礼ですが」と少し大きな声で言った。「耳にバナナが詰まっているのをご存じですか?」
 だが、紳士はまた「何ですって? もう一度おっしゃってください」。ついに男は「あなたの耳にですね、バナナが詰まってますよ
!」と大声を張り上げた。すると紳士は、こう言った。「すみませ
んが、全然聞こえないのです。何しろ耳にバナナを詰めているものですから」
 何でも「アンチ・クライマックス」という類いのジョークなのだそうですが、思い込みを鮮やかにひっくり返される点が爽快。自分が、見えている、分かっていると思っていることなどあてにはならぬと、ズバリ、そう言われたような感じもあります。

分かった気になって妄言

 現下のコロナ禍のような危機の時、不確かな情報に飛びつき、分かった気になって対応するというのは、最も避けるべき振る舞いでしょう。フランスの哲学者モンテーニュのよく知られた言葉を借りるならば、「ク・セ・ジュ(我、何をか知らんや)」。むしろ、いや、何も分かっていない、と自己を律する姿勢が冷静さをもたらすように思います。
 正反対の悪例をあげましょう。トランプ米大統領です。まだ寒いころには「暖かくなればウイルスは消える」と宣(のたま)い、果ては「消毒液を注射しては」とでたらめで危険な提案まで。「分かった気」になっての妄言の数々には、開いた口がふさがりません。
 そもそも、この疫病自体、まだ分からないことだらけです。
 例えば、なぜ日本では欧米諸国に比べ桁違いに感染者や死者が少ないか。そこには何らかの要因があるはずだと考える山中伸弥・京都大iPS細胞研究所長も「ファクターX」としていくつか候補をあげていますが、どの仮説も、肯定的データがある一方で否定的な現象もあるというような状態で、まだ答えは見えてきません。
 無症状の感染者が日本にはどの程度いるのか。厚生労働省の抗体検査によれば、東京、大阪でも抗体を持っていたのは0・1%台。考えられているよりずっと少なかった。その無症状の感染者がどれほど感染させているかについても世界保健機関(WHO)は以前、「あまり感染させない」としましたが、後に「かなり感染させている」と。さてどうなんでしょう。
 無論、いつごろ終息するのか、という肝心要の疑問に明快に答えられる人は世界中のどこにも居ません。確かなのは、しばらくはコロナと「つきあう」ほかなさそうだということぐらいでしょう。
 しかし、緊急事態宣言が解かれてしばし、私たちにも、どことなく分かった気になっているところがあるような気もします。
 例えば、喉元過ぎて、はて、あそこまでの活動の抑制は必要だったのか、と考えてみたり。でも、「大げさに構える」は危機管理の要諦です。しかも、相手は正体のよく見えぬ敵。警戒がオーバーサイズになったとしても致し方ないでしょう。第一、実際、何が効き何が効かなかったのか明確になったわけでもありません。今は、やはり、ク・セ・ジュでしょう。

冷静でいるための呪文

 この間、いわゆる「自粛警察」のような現象も起きました。強い不安の裏返しでしょうが、県境をまたぐ移動の自粛期には、県外ナンバーの車に投石するといった事例まで。あれとて、たとえカチンときても「自分が知らないだけで何か訳があるのかも」「自分が知らないだけでナンバーを替えていない県内在住者かも」などと考えを巡らせば、そんな極端な反応にはならなかったはずです。不安な時にこそク・セ・ジュ。冷静になるべき時の呪文かもしれません。

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