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「厳しさと愛情どちらも…」中日・与田監督に継承された“2人の遺志” あの日闘将はマウンドで待っていた

2020年6月19日 11時31分

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中日ー大洋 1球で連続試合11セーブポイントをあげ、日本タイ記録に王手の与田と迎える星野監督=1990年6月、横浜で

中日ー大洋 1球で連続試合11セーブポイントをあげ、日本タイ記録に王手の与田と迎える星野監督=1990年6月、横浜で

  • 中日ー大洋 1球で連続試合11セーブポイントをあげ、日本タイ記録に王手の与田と迎える星野監督=1990年6月、横浜で
  • 中日ー大洋 開幕戦を白星で飾り、与田(右)を出迎える高木監督=1992年4月、ナゴヤ球場で

渋谷真コラム・龍の背に乗って


 投手・与田は4球団に所属し、148試合を投げたが、うち147試合が中日時代だ。右肩に宿ったエネルギーを、短期間で猛烈に燃焼させた現役時代。星野仙一監督に、燃え盛る炎の中に突き飛ばされたのが始まりだった。
 1990年4月7日。開幕戦、同点の延長11回、無死一、三塁。新人を投げさせる場面ではない。名前を告げられた与田が走って向かったマウンドで、なぜか闘将は待っていた。
 「そうだね。僕が行ったときには星野さんがいた。『思い切っていけ』。そう言われたことくらいしか覚えてない」
 この修羅場を無失点で切り抜けたのを皮切りに、星野監督の下で79試合投げた。生涯最高の成績を残したのも、交換トレードでロッテに送り出されたのも星野監督だった。2017年。2人は楽天の球団副会長と投手コーチという立場だった。前半戦を首位で折り返し、4年ぶりのリーグ優勝が現実味を帯びだしたころ、副会長室に呼び出された。
 「僕と森山(良二投手コーチ)とね。『おまえら、これで優勝できんかったら…。首を洗っておけよ』と言われたんだ」
 顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。結果は失速して3位。オフには2軍担当となった。あのときの言葉が内示だったのか、それとも星野流の激励だったのか…。確認できぬまま、恩人は翌年1月に世を去った。
 「スイッチが入ったときは、星野さんより怖かった」。与田がこう話すのが、92年からの3年半で68試合投げた高木守道監督だ。今でも覚えている光景がある。昨年の8月25日。退任後はめったに球場に姿を見せなかった高木さんが、フラリと現れた。試合前の打撃練習を、ケージ真後ろで一緒に見ましょう。与田監督は腕をつかんで誘ったが、高木さんは「ここでええ」と隅っこから動こうとしなかった。高木さんは1月17日に急いで旅立ってしまった。2人がグラウンドで顔を合わせたのは、この日が最後だった。
 ナゴヤドームの監督室には、歴代26人の監督の写真が飾られている。「このチームの歴史を知っておきたい」と、就任直後の与田監督が真っ先に着手した「改革」である。もちろん厳しい顔をした星野も、柔和に見える高木の写真もある。
 「厳しさと愛情。どちらも注いでいただいた。(2人の)遺志を受け継ぎたい」
 未知のシーズン。選手の健康を守れ。そして強いドラゴンズを再建せよ。それこそが2人の遺志。継承者にはそれをやり遂げる使命がある。

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