僧が石の大きさ争う 平泉寺白山神社の大石垣(勝山)

2019年11月9日 18時01分 (6月13日 18時08分更新)
白山神社の大石垣=いずれも勝山市平泉寺町で

白山神社の大石垣=いずれも勝山市平泉寺町で

  • 白山神社の大石垣=いずれも勝山市平泉寺町で
  • 歴史や自然、文化などを紹介する史跡散策拠点の「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」
 一九八九(平成元)年、勝山市平泉寺町の山中で発掘調査が始まり、中世の石垣や石畳道が発見され、巨大な坊院群の存在が明らかになりました。それから三十年。坊院跡の発掘調査や整備が進められ、史跡散策の拠点として「白山平泉寺歴史探遊館まほろば」が開館しました。
 平泉寺には、日本遺産に関する注目ポイントがいくつもあります。まず、苔(こけ)の名所として観光客が訪れる、白山神社本殿前の大石垣を見てみましょう。
 大石垣は幅約百㍍、高さ約三㍍。大きな石を立てて張り付けるように据え、石の大きさを見せつける積み方になっています。この石垣の技術は、一乗谷朝倉氏遺跡の下城戸(福井市城戸ノ内町)とも共通するものです。
 朝倉氏の盛衰を描いた「朝倉始末記」に平泉寺の大石垣のことが出てきます。弘治年間(一五五五~五八)に平泉寺の諸堂が造営された時、「日本国一番の法師大名」と評された二人の有力な平泉寺僧が石の大きさを巡り争いになりました。
 一人は、知行三千石・貫を有したという波多野玉泉坊(ぎょくせんぼう)。波多野氏は、志比荘(しひのしょう)(現在の永平寺町を中心に上志比、下志比などの地名が残る)の武士で戦国時代には朝倉氏の家臣となっていました。その一族が平泉寺の僧になっていたのでしょう。
 もう一人は、飛鳥井宝光院(あすかいほうこういん)。知行八千石・貫ともいわれます。飛鳥井氏は京都の公家に関連する家の出身と思われます。また、宝光院の庭先には、「千人で引くほど」とも例えられた巨石がありました。
 さて、石の大きさを巡る争いは、まず宝光院が二間(約四㍍)四方の石を据え、玉泉坊は負けじと三間(約五㍍)四方の石を据えました。これを見た他の僧たちは「宝光院は玉泉坊に劣っている」と笑いました。怒った宝光院は、八間(約十四㍍)四方の大石を掘り出して石垣に据えようとします。ところが、この話を聞きつけた朝倉義景が「このような大きな石はあまりにぜいたくだ」として争いをやめさせました。このとき、宝光院が掘り出そうとしたといわれる巨石は、今も平泉寺南谷に謀反岩(むほんいわ)として残されています。
 平泉寺僧のメンツをかけた石垣の争いは、戦国時代の越前にあった価値観や技術の存在を今に伝えてくれています。(勝山市教委学芸員・阿部来)

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