「幻の城」石垣発掘か 北ノ庄城(福井)

2019年10月12日 17時50分 (6月13日 17時54分更新)
福井城跡発掘調査地点から推定される「北ノ庄城」の堀。赤い部分が発掘調査範囲で、水色の部分は河川推定流域

福井城跡発掘調査地点から推定される「北ノ庄城」の堀。赤い部分が発掘調査範囲で、水色の部分は河川推定流域

  • 福井城跡発掘調査地点から推定される「北ノ庄城」の堀。赤い部分が発掘調査範囲で、水色の部分は河川推定流域
  • 北ノ庄城の石垣とみられる石列
 一乗谷は、織田信長による一五七三(天正元)年の朝倉攻略後、桂田長俊(前波吉継)に治められることになります。しかし長俊に反感を持つ旧朝倉家臣の高田長繁らの画策で蜂起した一向一揆により占拠されます。
 信長は大軍により一揆を平定。越前の地は、この戦に手柄のあった柴田勝家に与えられました。勝家は一乗谷より地の利の良い北ノ庄(現在の福井市中心部)にその本拠を構え、七五年から築城にかかります。完成した北ノ庄城天守は、信長が築城した安土城(滋賀県近江八幡市)に匹敵するほどの規模で、石垣や石瓦には笏谷石(しゃくだにいし)がふんだんに使われていたと伝わっています。しかし、賤ケ岳(しずがたけ)の戦い(八三年)で羽柴秀吉に敗れた勝家は城に火を放ち、妻のお市とともに自刃します。
 北ノ庄城はその火災のためほとんどが灰に帰しました。また関が原の戦い後、結城秀康による「北ノ庄城(後に福井城と改名)」が同地に普請されたため、その所在が分からなくなりました。そのため、勝家が築いた北ノ庄城は「幻の城」と呼ばれていました。
 しかし、一九九三(平成五)年度から柴田神社(福井市中央一丁目)周辺で行われた発掘調査で、福井城址(じょうし)の下層から六つの石が並んで見つかりました。石列は福井城の絵図面に残された石垣の方向・位置とも一致しません。そのため、北ノ庄城の石垣と推定され、同地に保存されることになりました。その後、二〇一七年度までに行われた福井城址の発掘調査で、北ノ庄城と考えられる遺構を確認した箇所は五カ所に上ります。
 「幻の城」と呼ばれていた北ノ庄城ですが、発掘調査が進むことで、その一部と思われる遺構が確認されるようになりました。今後も北ノ庄城に関する新たな発見されることに期待したいと思います。(福井市文化振興課主幹・田辺朋宏)

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