七里壁と勝山城下町 石垣技術変遷分かる(勝山)

2019年9月14日 17時42分 (6月13日 17時48分更新)
 「七里壁(しちりかべ)」という言葉をご存じでしょうか。勝山市平泉寺町大渡(おおわたり)から九頭竜川の下流に向けて、高さ五~七㍍で「七里」(約二十数㌔)続く、九頭竜川の河岸段丘の「壁」です。今回は七里壁と勝山城下町を紹介します。
 一五七四(天正二)年に一向一揆によって平泉寺が焼亡した後、この地域の中心となった勝山には柴田氏が勝山城を築き、城下町を整備しました。その後、松平氏など領主が替わる中で、福井藩の領地に組み込まれ、勝山城は廃城になります。しかし、一六九一(元禄四)年に小笠原貞信が美濃国高須(現在の岐阜県海津市)から勝山へと転封になり、再び勝山藩が成立しました。
 七里壁の上には、勝山城(現在の勝山市役所)のほか、新しくやって来た小笠原家臣団の武家屋敷が造られ、七里壁の下には町屋などの町人地や寺院が広がる新しい勝山城下町へと生まれ変わったのです。今年の六月から、県埋蔵文化財調査センターが進めている勝山城下町の発掘調査でも七里壁らしき段差が見つかっています。
 当時の勝山城下町の姿を伝える貴重な文化財が「元禄時代勝山町図」です。七里壁は大部分が自然の崖として描かれていますが、一部に石垣らしき表現がみられます=絵図参照。おそらく、城下町が整備され、勝山が発展していく中で、崖の崩落を防ぐため徐々に石垣が築かれていったのでしょう。
 現在、七里壁の石垣は丸い河原石を垂直に積み上げたもののほか、切石を用いた亀甲積み、コンクリートに河原石を埋め込んだ練積みなどがあり、江戸時代以降の町並みに用いられた石垣技術の変遷を知ることができます。なお、勝山城の石垣は昭和になって大部分が取り壊されてしまいました。石づくりの宗教都市、白山平泉寺の石垣技術との関わりを解明するには、大きな痛手としかいいようがありません。
 さて、七里壁のような地形の変わり目からは、伏流水が湧きだします。現在も残る大清水(おおしょうず)のほか、国泰寺下の天台清水など、かつての勝山は湧水の宝庫で、豊富な水が町中を縦横に流れる水の町でした。勝山城下町の魅力を高めるため、七里壁や大清水という残された遺産をうまく活用していきたいものです。(勝山市教委学芸員・阿部来)

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