大動脈寄り添い発展 川と城下町・勝山

2020年5月9日 05時00分 (6月12日 20時00分更新)
九頭竜川に沿うように広がる勝山市の街並み=勝山市遅羽町比島で

九頭竜川に沿うように広がる勝山市の街並み=勝山市遅羽町比島で

  • 九頭竜川に沿うように広がる勝山市の街並み=勝山市遅羽町比島で

 満開の勝山弁天桜や足羽川の桜並木を楽しみに河川敷を歩く人々の姿は、春の風物詩といえるものです。日本遺産に認定された城下町も、勝山は九頭竜川、福井は足羽川にそれぞれ寄り添うことで、町を発展させてきました。
 九頭竜川は中世には「崩河(くつれかわ)」と呼ばれていたように、流路が定まらず、大変な洪水をもたらす存在でした。勝山市荒土町の妙金島(みょうきんじま)や福井市の八ツ島といった島のつく地名は、複雑な流路と水害の記憶をとどめるものです。
 洪水と隣り合わせの川辺に城下町が建設された理由は何だったのでしょうか。それは、多くの人が暮らし繁栄する町に、川や川沿いの陸路を通じて必要な物資を供給するためでした。
 九頭竜川や足羽川を行き交う船は、笏谷石(しゃくだにいし)をはじめさまざまなものを運んでいました。たとえば鎌倉時代末ごろに若狭三方郡御賀尾浦(みかおうら)(現在の若狭町神子(みこ))の船が九頭竜川から足羽川をさかのぼり北庄へとやってきて、積み荷の塩と銭を奪われたという記録があります。また、一乗谷近く、足羽川の船着き場が発掘された安波賀(あばか)は、唐人(とうじん)(中国人)の在所があったといわれる物資の中継地でした。
 さらに、九頭竜川には関所もありました。藤島荘(福井市東藤島、西藤島などの地名が残る)に設置された関所では、勝山の七山家(ななやまが)(勝山市北谷町を中心とする地域)の人々が福井平野へと運ぶ「檜物(ひもの)(ヒノキの薄い板を曲げて作った器=まげもの)、筏(いかだ)、蓑(みの)、笠(かさ)、榑(くれ)(皮が付いた状態の木材)、箕(み)、笊(さうけ)(ざる)、臼」といった木製品に対して通行税をとり、平泉寺の流鏑馬(やぶさめ)の費用を集めていたのです。中世平泉寺の末寺が九頭竜川流域に広く存在していたように、川や川沿いの道は人の移動や物流の大動脈となっていました。
 平泉寺と九頭竜川の間には北市、一乗谷には安波賀というように、戦国時代までは物資の中継地が町の周辺にありました。しかし、江戸時代の勝山や福井では川や街道を城下町の中に取り込んでいます。交通路を重視した城下町の立地をみれば、中世から近世にかけての人口増加や経済発展という時代の変化に即したまちづくりを読み取ることができます。(勝山市教委学芸員・阿部来)

関連キーワード

PR情報