平泉寺技術者戦国に活躍 石がたりの旅 福井・勝山

2020年3月14日 05時00分 (6月12日 20時01分更新)
平泉寺坊院跡の石垣発掘作業=勝山市平泉寺町で

平泉寺坊院跡の石垣発掘作業=勝山市平泉寺町で

  • 平泉寺坊院跡の石垣発掘作業=勝山市平泉寺町で
  • 安土城址に残る石階段や石垣=滋賀県近江八幡市安土町で(協力・見寺)
 日本遺産のテーマである「石」。福井・勝山の風景には欠かせない存在です。では、その風景はいつ頃生まれたのでしょうか。
 その謎を解くカギは、今から五百五十年ほど前の白山平泉寺(勝山市)にあります。発掘調査を行うと、中世の石垣の裏から室町時代前半(一四五〇年くらい)までの陶磁器が出土します。しかし、戦国時代に入ったといわれる一五〇〇年ごろ以降のものはみられません。これは、平泉寺の石垣の多くが一四五〇年前後から一五〇〇年ごろまでに造成された証拠です。また記録によれば、一四四〇年に平泉寺が火災で焼失し、室町幕府が北陸道七カ国に税金をかけて平泉寺の造営費用を集めたとされます。おそらく平泉寺を復興するなかで、石垣や石畳道が造られていったのでしょう。
 一方、戦国時代の城下町・一乗谷では、一五〇〇年ごろ以降に現在整備されているような石を多用する都市が建設されていきました。石垣の積み方や使われている石の大きさなどは平泉寺によく似ているので、平泉寺が持つ石の技術、おそらく技術者集団が活躍したのではないか、と考えられています。全国の発掘調査成果をみると、戦国時代までに石垣や石畳道などによって生活空間を整備したのは、越前国だけといっても過言ではありません。
 石垣を含む石のインフラ整備が全国に普及していく契機の一つは、織田信長による安土城の築城でした。信長は、城内の全域に石垣や石階段などを用いて、新しい城郭のスタイルを確立させました。一乗谷の焼亡が一五七三年、平泉寺の全山焼亡は一五七四年、信長の安土築城開始は一五七六年ですから、平泉寺と一乗谷の先進性は語るまでもないでしょう。
 福井・勝山、さらには全国の石の風景のはじまりは、平泉寺と一乗谷にあった、と考えることも不可能ではありません。
 コロナウイルス感染抑止の瀬戸際といわれる昨今。今月二十二日に予定していた日本遺産認定記念シンポジウム「福井・勝山 石がたり」も中止になりましたが既に約三百人の申し込みがあり高い関心を寄せていただいていました。流行収束後には、日本の歴史や文化を「石」から捉える「石がたりの旅」に出掛けてみるのはいかがでしょうか。(勝山市教委学芸員・阿部来)

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