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3場所28勝しかしていないのに「北関、大関昇進です!」突然の使者にさあ大変…【北の富士コラム】

2020年5月30日 22時27分

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大関昇進を伝える使者に答礼する北の富士と横綱佐田の山(左)=1966年7月

大関昇進を伝える使者に答礼する北の富士と横綱佐田の山(左)=1966年7月

 新生出羽海の快進撃が続きます。佐田の山関が入幕3場所目で12勝3敗で初優勝を果たしたのです。次は横綱昇進と部屋の士気はいやがうえにも盛り上がってきます。
 出羽錦関と大晃関は佐田の山関が昇進するまでは引退はしないと老体?にむち打って頑張ります。その甲斐あってか佐田の山関は1965(昭和40)年初場所後、宿願の横綱昇進となったのです。
 大鵬、柏戸全盛時代に小兵にも近い佐田の山関の昇進はわれわれ若手にも大きな刺激になったのです。一方、私も63(昭和38)年九州場所で十両で全勝優勝を果たし、翌64(昭和39)年初場所に入幕し13勝2敗で敢闘賞。続く春場所は一気に小結にまで昇進しました。平幕知らずの記録として少しは話題になったものです。
 部屋の勢いはとどまるところを知りません。今度は北の富士を大関に上げる番となり、稽古は激しさを増します。佐田の山関の稽古熱心は誰もが認めるところ。1人でも大変なのに一門の栃ノ海関、栃光関にもよく稽古をつけていただいたものです。
 しかし、66(昭和41)年の名古屋場所で思いがけないことが起こりました。この場所は10勝5敗に終わりましたが、私としては2桁の星に満足して大酒を飲んで翌朝遅くまで前後不覚で寝ていました。床山の清さん(床清)に激しく起こされました。「北関、大関昇進です。もうすぐ使者が来ます」。まるでキツネにつままれたようです。
 現在は(三役)3場所で33勝が目安と言われていますが、私は28勝しかしていないので昇進するわけがないのです。したがって名古屋で勝っても昇進は無理と思い、紋付きの用意もしていなかったのです。さあ大変。佐田の山関に紋付きは貸していただいたので間に合いましたが、白足袋が合いません。私はバカの大足で佐田の山関のでは入りません。そうだ、近くに柏戸関の部屋がある。お願いすると快く貸してもらえました。
 大慌てで床清さんにまげを結ってもらい、ようやく伝達式を迎えることができました。本来は師匠とおかみさんが同席するのですが、佐田の山関に代役を務めていただきました。現役の横綱の立会人はおそらく初めてで、今後もないと思われます。
 まさか28勝で大関昇進とは、さすがに恥ずかしさはありました。いろいろと嫌なことも言われましたが、初代若乃花関も28勝で上がったと聞きホッとしたものです。将来性を買ったとも言われましたが、もしそうだとしたらありがたいことです。
 あの当時は玉の海、琴桜、清国、麒麟児、明武谷、開隆山、そして私が「七人の侍」と言われ大関先陣争いを展開していましたが、10勝を3場所続けるのは至難の業だったのです。考えてもみてください。上には大鵬、柏戸、栃ノ海、北葉山、豊山。佐田の山関は同部屋だから対戦はしなくて得をしたが、このそうそうたるメンバーを相手に勝ち越すだけでも大変なことでした。それに私自身が次男坊的なところがあり、さほど大関に上がりたいとも思っていなかったところがありました。
 まるで棚からぼた餅のような大関昇進でしたがこれで横綱、大関がそろい、福の花や松前山、巨漢の義ノ花の若手たちも幕内に上がってきていました。出羽錦関と大晃関はさすがに引退されましたが、小城ノ花、金乃花、常錦関らベテランが若手の指導を熱心にして出羽海部屋は押しも押されもせぬ存在となったのです。そして次は「北の富士を横綱に」が合言葉になってきたのです。ところが……。どうやら紙面が尽きたようです。続きは明日。(元横綱)

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