本文へ移動

太田 七兵衛(1859〜1928年) 金沢市 芝居小屋「福助座」創業の興行師

2022年7月6日 05時05分 (7月6日 10時12分更新)

香林坊 大衆娯楽の礎

 明治から昭和初期にかけ、金沢市香林坊で不動の人気を博した芝居小屋があった。その名も「福助座」。当時の代表的な娯楽だった歌舞伎などを上演し、役者目当ての庶民が詰め掛けた。創業者の興行師、梅若こと太田七兵衛は、現代まで続く香林坊のにぎわいの基礎をつくった。(河野晴気)
 福助座は今の香林坊交差点の一角、東急スクエア辺りにあった。正確な開業時期は分からないが、何度か近隣で移転を重ねた。古くは一八八九(明治二十二)年の福助座の芝居番付が残る。歌舞伎だけでなく、寄席や見せ物、食事も楽しめた。最盛期は連日、老若男女が行き交い、室生犀星は小説「古き毒草園」で福助座をモデルに描いている。
 石川県立歴史博物館の学芸課長・大門哲(58)によると、もともと金沢の芝居小屋の興行は現在の馬場小校下の浅野川沿いが中心。香林坊一帯は廃藩置県で士族階級が流出し、空洞化が目立っていた。そこに目を付けたのが梅本という茶屋で働いていた若き太田。有力商人を後ろ盾に独立を目指した。
 ただ、市街地での前例のない事業とあって道のりは険しかった。簡素なわら小屋からスタートし、本格的な芝居小屋を建設する役所の認可が下りるまでには、三年を要したという。大門は「困難を乗り越え、香林坊が歓楽街になる原型を作った功績は大きい。エネルギッシュな人としか言いようがない」と語る。
 嵐冠十郎ら歌舞伎の座付きの看板役者を擁し東京や大阪からも名優を招いた。三六〇度見回せるパノラマ館や活動写真の上映もいち早く取り入れ「金沢一の劇場」と呼ばれるほどの盛況ぶりに。それでも、映画の台頭や太田の死を機に徐々に衰退。福助座は一九三三(昭和八)年に解体された。
 福助座の遺産は今日にも続く。大勢の針子が手がけた自前の衣装や演劇関連の技術が後世に引き継がれた。福助座にルーツを持つ同市中央通町の梅若演劇衣裳(いしょう)店は、金糸をふんだんに使いコイの滝登りの刺しゅうを施した打ち掛けなどを多数保管。金沢百万石まつりでは百万石行列のメークを長らく担当してきた。
 「お客が現実の世界を忘れ、作品に没頭するためには豪華な衣装が必要だった」と太田のひ孫にあたる店主、尾山碧(みどり)は指摘する。「これまでやってこられたのも先代のおかげ。自分の好きなことを極めて幸せだったと思う。直接会ってみたかった」。白黒写真のアルバムを手に、そうほほ笑んだ。(敬称略)
      ◇      ◇      ◇
 次回は、金沢市諸江公民館の館長を十五年務め、地域の活動に貢献した坪野勉(一九四三〜二〇二二年)を紹介します。

【プロフィール】おおた・しちべえ=1859年(月日不明)、7人兄弟の末っ子として金沢市内の農家に生まれた。梅若の名は19歳で修業に入った茶屋、梅本の若い衆に由来する。香林坊の福助座以外にも、小松市に第二、富山市に第三、金沢市下新町に第四の福助座をそれぞれ設け、北陸地方の興行界に名をはせた。1928年1月に死去。

関連キーワード

おすすめ情報

わがまちの偉人の新着

記事一覧