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【井出明のダークツーリズムで歩く 北陸の近現代】(13)寺島蔵人配所址

2022年7月2日 05時05分 (7月2日 12時38分更新)

寺島蔵人が幽閉された配所の跡地には、旧能登島町によって設置された看板だけが残る=石川県七尾市で

忠臣の最晩年 現場でこそ感慨
 流刑地だった能登島

 現在は水族館や海水浴場などで知られる能登島(石川県七尾市)であるが、江戸時代は加賀藩の流刑地として活用されていた。
 先月の本コラムで取り上げた寺島蔵人(てらしまくらんど)も、政争に敗れた後、最晩年はこの地に流されて生涯を閉じることになった。彼のような有為の人材が活用されなかった当時の状況は、幕末の加賀藩に次々と生じた困難の伏線となったのではないかという思いを持った私は、臨終の地に赴いてみることにした。
 知識それ自体は書物やインターネットでも手に入るのだが、思索は「何を考えるのか?」と同じく、「どこで考えるのか?」も重要と言える。ヨーロッパにおいてダークツーリズムという新しい旅のあり方が、観光の概念として確立した背景には、「現場に体をおいて考える重要性」が知識人の間で共有されるに至ったといういきさつがある。
 例えば、今はきれいに整備された北京の天安門広場に行ってみると、穏やかな情景の中にも一九八九年の悲劇が想起され、その地で亡くなった方への追慕の気持ちや、中国の政治体制に関するさまざまな思いが自然にあふれてくる。
 現状、能登島における寺島蔵人が暮らした地は、配所址(あと)に案内板があるだけで、残念ながら思索にふけるような施設はない。しかし、幕末に生じてくる藩の混乱を考える場として、忠臣の流刑先は大きな可能性を持っている。藩を愛した男が、死の直前、ここでどのような所感を持ったのだろうかと想像してみると、確かにこの地ならではの感慨がこみ上げる。

 幕末の武家社会が持つ矛盾を考える場合、やはり金沢とここ能登島では浮かんで来る心情がかなり異なる。というのも「加賀百万石の城下町」である金沢では、観光客に楽しんでもらうための情報がノイズとなってしまい、武家社会の凋落(ちょうらく)について考えることは、何かそれ自体が反道徳的な営為ではないかという気さえしてくる。裏を返せば能登島だからこそ落ち着いて考えられるテーマというものも存在する。
 風光明媚(めいび)な景観に恵まれ、楽しいレジャー施設が多くある能登島であるが、ここでの滞在は、光の歴史だけでは語りきれない加賀藩の影に関する気づきを与えてくれる。それは金沢ではなかなか得られない新しい視点であり、北陸という地域を多角的に見る眼を養う。今後の能登島において、「流刑地であった島だからこそ与えられる新しい啓発」という観点から、もう一歩踏み込んだ観光開発が展開されることを心から期待している。 (いで・あきら=金沢大国際基幹教育院准教授)

【メモ】 寺島蔵人配所址 1836(天保7)年、加賀前田家12代斉広(なりなが)に重用されていた寺島蔵人は、斉広の死後に年寄(重臣)らの政治を批判して能登島での蟄居(ちっきょ)を命じられる。翌年に現在の八ケ崎町の配所小屋に赴いたが、体調を崩しその年のうちに死去した。旧能登島町(現七尾市)が設置した看板によると、能登島には、江戸時代初期から明治の初めまで113人の流刑者がいたとされる。多くが藩政を批判した政治犯で、20あった村のうち14が受け入れ地になった。

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