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週のはじめに考える 基地存続に無念の涙雨

2022年5月15日 05時05分 (5月15日 05時05分更新)
 五十年前の一九七二(昭和四十七)年五月十五日、沖縄は日本に復帰しました。しかし、沖縄県民が望んだ「基地のない平和の島」はかなわず、今も県内には在日米軍専用施設の約70%が残ります。
 復帰当日の午前十時半、政府主催の「沖縄復帰記念式典」が東京・日本武道館と那覇市の那覇市民会館の二カ所で始まりました。
 当日の本紙夕刊は那覇会場では「式典は君が代斉唱に続いて、会場中央に設けられたカラーテレビが東京式典を中継、佐藤(栄作)首相式辞、天皇陛下のおことばが会場に流された」と報じます。
 佐藤氏は戦後初めて沖縄を訪れた首相です。「沖縄の祖国復帰が実現しない限り日本の戦後は終わらない」と語り、沖縄返還の実現へ米側と交渉を重ねました。
 「沖縄は本日、祖国に復帰した。戦中、戦後の沖縄県民の労苦は何をもってしても償うことはできないが、今後本土との一体化を進める中で沖縄の自然、伝統的文化の保存との調和を図りつつ、総合開発の推進に努力し、豊かな沖縄県づくりに全力を挙げる決意だ」
 こう述べた首相の式辞が終わると、那覇会場でも一斉に拍手が湧きました。しかし、壇上では沖縄県の屋良朝苗(やらちょうびょう)知事だけが拍手もせず、目をつぶったまま考え込んでいた、と本紙夕刊は報じます。
 この後行われた現地式典での屋良氏=写真中央、沖縄県公文書館所蔵=のあいさつが、その心情を映し出しています。佐藤首相や米国など関係者への謝意を表明した後、こう述べたのです。

沖縄の願望届かぬ復帰

 「沖縄の復帰の日は疑いもなく到来した。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみると、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実だ。そこには、米軍基地の態様の問題をはじめ、内蔵するいろいろな問題があり、これらを持ち込んで復帰した。私どもにとって、これからもなお厳しさは続き、新しい困難に直面するかもしれない」
 屋良氏が言及した沖縄県民の要望と心情とは、「基地のない平和の島」を指します。
 大戦末期の激烈な地上戦で県民の三分の一が犠牲となり、戦後は本土と切り離され、人権無視の米軍統治が続きました。本土の米軍基地は沖縄に移転され、事故や殺人、性的暴行などの事件も絶えません。県民が復帰に当たり、基地のない島を切望して当然です。
 復帰前年の十一月十七日、琉球政府主席だった屋良氏は、復帰に当たって沖縄側の要望をまとめた百三十二ページにわたる「復帰措置に関する建議書」を手に、米軍統治下にあった沖縄から東京へと向かっていました。日本政府や当時、沖縄返還協定を審議していた国会に届けるためです。
 建議書には「基地のない平和の島」「平和憲法の下で基本的人権の保障」など、沖縄戦や米軍統治による人権抑圧に苦しんできた沖縄の人たちが求める復帰の姿がつづられていました。

建議書無視の強行採決

 しかし、佐藤氏率いる自民党政権は屋良氏の上京時刻に合わせ、衆院返還協定特別委員会で協定案の強行採決に踏み切りました。東京・赤坂のホテルに着き、報道陣から採決を初めて知らされた屋良氏にとって、まさに「青天の霹靂(へきれき)」です。切実な思いが届かぬ無念さは想像に難くありません。
 復帰当日の午後、那覇市民会館では政府主催の式典に続き、県主催の新沖縄県発足式典が行われました。隣接する与儀公園では、革新団体を中心とする県民総決起大会が開かれ、自衛隊配備反対、基地撤去、安保破棄を訴えました。
 那覇には激しい雨が降っていました。それは、米軍基地が存置されたままでの復帰に対する、屋良氏はじめ沖縄県民の「涙雨」だったに違いありません。
 復帰は沖縄の人たちにとって、人権無視の米軍統治からの解放であり、基地のない平和の島への希望であり、平和憲法の下への復帰であったはずです。
 しかし、復帰後五十年を経ても多くの米軍基地が残り、事件や事故は依然、身近な問題です。県民の反対にもかかわらず、新しい基地も造られています。日本政府の強引さは「銃剣とブルドーザー」で土地を強制収用し、基地を広げた米軍をも思い起こさせます。
 沖縄は本当に復帰したと言えるのか。いま一度深く考える必要がある、と思わずにはいられない、五十年後の復帰の日です。

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