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若泉さん没後も変わらぬ沖縄 本土復帰あす50年

2022年5月14日 05時05分 (5月14日 12時10分更新)
1996年6月23日、壕の前で手を合わせる若泉さん=いずれも沖縄県糸満市新垣で(山岸豊治氏撮影)

1996年6月23日、壕の前で手を合わせる若泉さん=いずれも沖縄県糸満市新垣で(山岸豊治氏撮影)

  • 1996年6月23日、壕の前で手を合わせる若泉さん=いずれも沖縄県糸満市新垣で(山岸豊治氏撮影)
  • 1996年6月23日の沖縄慰霊の日、国立沖縄戦没者墓苑を訪れた若泉さん。約1カ月後、自ら命を絶つ

 佐藤首相の密使で返還交渉


 「基地なくさない方向へ」


 交流あった元琉球放送記者嘆き

 沖縄県は十五日、本土復帰から五十年を迎える。半世紀前、日米間の返還交渉の裏で活躍したのが、越前市出身の国際政治学者・若泉敬(わかいずみけい)さん(一九三〇〜九六年)だ。有事の「核再持ち込み」を認める密約を交わし、米軍基地が温存された「結果責任」に苦しみ続け、九四(平成六)年に自著で交渉過程を暴露して、その二年後に自死した。晩年の若泉さんと交流した沖縄の元琉球放送記者は「(若泉さんが命を絶った)二十五年前と現状はまったく変わっていない」と嘆いた。(藤共生)
 若泉さんは六七年から六九年にかけて佐藤栄作首相の密使として水面下で返還交渉にあたり、米国の「核再持ち込み」の要求をのむ当事者となった。
 九四年、歴史の事実と日本の従属的立場を世に示すため、これらの交渉内容を明かした「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を出版。同年「結果責任」をとるための自殺を考えて沖縄を訪問したが、一度は思いとどまった。同書の英語版が完成した二年後の九六年、鯖江市の自宅で服毒自殺した。
 自著出版後、若泉さんはマスコミとの接触を断った。そんな中で唯一交流したジャーナリストが、元琉球放送記者の具志堅勝也さん(67)だった。具志堅さんは若泉さんと二年間にわたって交流を重ね、没後の九七年、琉球放送で復帰二十五周年特番として「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス−そして核の密約が交わされた」を制作、放送した。
 具志堅さんにとって若泉さんとの出会いは大きなものだった。「日本政府の側にここまで沖縄のことを考えてくれる人は、これまでいなかった。密約を交わしたことで自裁まで考えるほど、沖縄県民に申し訳ないと自責の念を持ってくれた。日本政府に大きな不信感と失望感を持っている僕にとって、これは救いだった」
 沖縄復帰から五十年。具志堅さんは若泉さんの言葉を思い返している。「若泉さんは、復帰すれば当然、日本政府は米軍基地を減らすと考えていた。日米が対等になるため、基地をなくすことを望んでいた。減らないのは政府の怠慢だと怒っていた」。若泉さんの死去から二十五年。「変わらないどころか、沖縄の基地はなくしてはいけないという方向に傾いている」と嘆いた。
 ロシアのウクライナ侵攻により、国内でも安全保障の議論は過熱している。一部報道機関が三月、アメリカの核兵器を日本国内に受け入れて共同運用する「核共有」について世論調査を行った。その結果「核共有に向け議論すべきだ」「核共有はすべきではないが議論はすべき」と答えた人は八割近くに達した。具志堅さんは回答者に重ねてこう質問してほしかったという。「もし核共有が決まったら、あなたの住む地域に配備されても構わないか?」と。

 若泉敬(わかいずみ・けい) 旧今立郡服間村出身。福井大の前身である福井師範学校を経て、東大に進学。卒業後、英国、米国に留学し、京都産業大教授などを歴任した。佐藤栄作首相の密使として当時のキッシンジャー米大統領補佐官と返還交渉した。

怒りで訴えても人は動かない


取材後記


 具志堅さんの話を聞き「(核共有について)自分の住んでいる地域の近くに配備されることはない」という前提が私の中にあったことに気づかされた。
 これまで自分なりに沖縄に関心を持ってきたつもりだった。しかし、どこまでも見えていないことがあることを知った。
 具志堅さんへの聞き取りの中で印象に残るやりとりがあった。
 私は「できれば具志堅さんの意見もしっかり載せたい」と伝えた。しかし、具志堅さんは「あくまでも若泉さんはどう考えていたか」にこだわった。そして、その理由をこう語った。
 「沖縄のメディアとして言いたいことはいっぱいある。でも、怒りで訴えても人は動かないということを、僕は何十年もの記者経験で学んできたから」
 重い言葉だった。具志堅さんの怒りとむなしさを想像した。そして自分もまた、その思いを抱かせた一人なのだと思った。 (藤共生)

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