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<by小中学生記者>沖縄本土復帰50年に迫る㊤
沖縄平和運動センター元議長・山城博治さんに聞く

2022年5月11日 22時42分 (5月14日 12時11分更新)
 アジア・太平洋戦争に敗戦し、米国に統治されていた沖縄が日本に復帰して、15日で50年を迎えます。米軍統治下の時代を生き、今も沖縄で平和運動を続けている山城博治さん(69)に小中学生記者11人がオンラインで取材。日本復帰前の暮らしや米軍の基地問題などに迫りました。2回に分けて紹介します。

やましろ・ひろじ 1952年、沖縄県具志川市(現うるま市)生まれ。82年、沖縄県庁に入庁し、駐留軍従業員対策、不発弾対策などを担当。2004年に沖縄平和運動センター事務局長、13年から同議長を歴任し、21年退任。普天間飛行場のオスプレイ配備や辺野古基地建設に反対するなど沖縄の反戦平和活動の先頭に立ってきた。


自由や平等はなかった

 ー終戦から沖縄が日本に復帰するまで、どのような暮らしでしたか。
 終戦直後は米軍から分けてもらったパラシュートなどに木を組み合わせたテント小屋のような住まいで、私の家族も戦後十年ぐらいは暮らしていたようです。沖縄に日本国憲法は適用されず、本土のみんなが持っている自由や平等はありませんでした。
 その中でいい思い出といえば、高校二年の時、沖縄の中高生が愛知県に行く交流事業に参加したことです。一晩、船に揺られて鹿児島港に到着。パスポートを持って本土に降り立った時、「ここが祖国なのか」と、思わず地面に額をつけました。名古屋ではテレビ塔や市役所を訪れ、すべてが広く、大きく、高く見えました。

沖縄の日本復帰を祝う横断幕がかけられた那覇市の国際通り=1972年5月15日


 ー復帰当時の街の様子は。
 米国の統治下では右側通行だった交通ルールが、復帰六年後の一九七八年七月三十日、一晩にして左側通行に変わりました。復帰の象徴だったと思います。

基地残り今も米軍最優先

 ー米軍基地ができたことで何が変わりましたか。
 米軍が日本でスムーズに活動できるように特別な権利を定めた「日米地位協定」というものがあり、米軍が最優先されています。米軍が関係する事件や事故も後を絶ちません。二〇〇四年には沖縄国際大(宜野湾市)に隣接する普天間飛行場から飛んだ大型輸送ヘリが墜落しました。市街地にある普天間飛行場は、このような事故の危険性が以前から指摘され、辺野古(名護市)という自然豊かな海域に移設する計画が日米政府で合意されました。ただ、一九年に辺野古基地建設のための埋め立ての賛否を問う住民投票を実施したところ、「反対」に投票総数の七割、約四十三万票が集まりました。

 -米軍基地の良い面と悪い面は。
 本来、米国人が来てくれただけなら国際交流として歓迎すべきこと。ですが、沖縄戦で上陸した米軍は、同時に沖縄の基地を使って日本本土を攻撃しました。だから良いことは考えにくいのですが、生活面から見ると「基地経済」があります。戦争で全てがなくなった沖縄に、道路が拡張され、郊外型のショッピングセンターができました。基地関連の労働者は復帰後で最大一万九千人くらいいました。
 かつて基地の中に住んでいた米軍の人たちの多くは現在、基地の外のアパートやマンションにも住んでいます。その子どもたちの中には地域の学校に通う子もいて、日本語も話せます。私たちも気後れせずに交流すればいいのだろうけれど、そこまで踏み出せない人もいるのが現状です。(構成・酒井ゆり)
<連載㊦>沖縄平和運動センター元議長・山城博治さんに聞く

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