本文へ移動

立浪少年が見た働く母の背中…PL時代の厳しい寮生活「しんどくても踏みとどまれた」今も変わらぬ“ありがとう”

2022年5月9日 09時27分

このエントリーをはてなブックマークに追加
中日入団が決まり笑顔の立浪和義。後ろは母の好子さん。左は中田スカウト=1986年11月

中日入団が決まり笑顔の立浪和義。後ろは母の好子さん。左は中田スカウト=1986年11月

◇渋谷真コラム・龍の背に乗って ◇8日 中日3-4阪神(バンテリンドームナゴヤ)

 NPBマザーズデー2022。母の日を祝し、全てのお母さんに「ありがとう」を伝える日だった。ベースも審判もバットもピンク。母への思いがひときわ強いのが、先発した柳であり、ベンチで戦況を見つめた立浪監督だった。
 小学2年の時、両親が離婚した。以来、兄と自分を育ててくれ、社会へと送り出してくれたのは母だった。営んでいた化粧品店の仕事は、店を閉めた夜も配達に追われるほど忙しかった。それでも真っ黒になったユニホームを洗ってくれ、好物のカレーライスを作ってくれる母の愛情は、立浪少年にもハッキリと伝わった。
 やんちゃな息子に、口酸っぱく説いたのは「人さまには迷惑をかけるな」。勉強が決して得意ではなかったが、人さまに迷惑をかけると、大好きな母が悲しむことは理解した。昭和の小学校には、まだクラス名簿があった。保護者の名前、連絡先など今は明かされない個人情報が載っている。自分のところは父の名が空欄だ。それを寂しいとは思ったが、子ども心に誓ったことがある。早く大きくなって、野球で稼いで、自分が母を楽にする。その過程がPL学園への進学だった。
 全国の精鋭が18人集まっていた。しかし、自宅を離れての寮生活は、想像を絶する厳しさだった。実際、立浪の同学年は3人が消えている。こういう書き方をしたのは、野球エリートだった彼らにとって、部から逃げ出すことは通常の学校生活の放棄であり、もっといえば人生の挫折だったからだ。そんな壮絶な日々を耐え抜けた理由を、こう語る。
 「母親が一生懸命働く姿を見ていたからですよ。母のことを思えば、しんどくても踏みとどまれたんです。野球を続けさせてくれたから、今の自分があるんです」
 勝てた試合を落とす。よもやの離脱者が出る。苦しいが、耐えられる。今も元気な母への「ありがとう」。少年期から忘れたことのない感謝である。

関連キーワード

おすすめ情報

購読試読のご案内

プロ野球はもとより、メジャーリーグ、サッカー、格闘技のほかF1をはじめとするモータースポーツ情報がとくに充実。
芸能情報や社会面ニュースにも定評あり。

中スポ
東京中日スポーツ