浜松大空襲 焼夷弾で火の海 必死に逃げる

2019年6月14日 02時00分 (9月11日 14時10分更新)

(写真上)焼け野原となった終戦後の浜松駅周辺=浜松市博物館提供、(写真中)保存されている「焼夷弾」=浜松市中区蜆塚の市博物館で、(写真下)機銃掃射とみられる傷痕(中央)が残る楊子橋=浜松市南区で

 浜松の空襲は、1944(昭和19)年の11月から終戦まで27回におよび、全国的にみても悲惨な被害を受けた都市です。落とされたのは焼夷弾。中身はゼリー状のガソリンで、着地すると数秒で爆発し、あたり一面を火の海にしました。
 当時の小学生は、いつ空襲にあうのか分からないので、防空頭巾をかぶって登下校していました。空襲警報が鳴ると防空頭巾の上から目と耳をふさぎ、身をできるだけ低くして道ばたなどに伏せました。近くに防空壕があるときは入れてもらえることもありました。
 家で寝るときは、防空頭巾や救急薬品などを枕元に置き、いつでも逃げられる服装で布団に入りました。家の窓のガラスは、爆弾が落ちたとき、割れた破片が飛び散らないように×印にテープを貼りました。また、夜は明かりがもれないように、天井からつり下げた電灯をボール紙と黒布でおおいました。
 私の祖父は、爆弾の直撃を受け、亡くなったそうです。常々「空襲のときは家族一緒に逃げよう」と話していたそうですが、その日以降は、誰か一人でも生き残ってほしいと考えるようになり、空襲のたびに各自が必死に逃げたそうです。
 とくに1945(昭和20)年6月18日は大空襲でした。午前0時すぎ、およそ100機のB29爆撃機が浜松に襲いかかりました。『見る読む浜松歴史年表』によると、この日だけで焼夷弾6万5000発が投下され、死者約1700人、負傷者約1500人を出し、約1万5000戸の住宅が全焼したそうです。
 浜松市博物館には六角形をした焼夷弾の弾筒部(長さ約50センチ、直径約8センチ)が保存されています。南区の楊子橋には、戦争中に米軍機が地上に向け機関銃を撃った傷痕が残っています。
 浜松の空が、いつまでも清く澄み切っていることを願います。
<もっと知りたい人へ>
参考文献:『言えなかったサヨナラ 浜松大空襲日記 まんが子ども太平洋戦争物語』日本戦災遺族会、『米軍資料から見た浜松空襲』阿部聖
見学場所:浜松市博物館:中区蜆塚4-22-1、浜松復興記念館:中区利町304-2 

関連キーワード

PR情報