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徳川家康 次々と改名 強い武将に

2019年9月27日 02時00分 (9月11日 14時54分更新)
三方原の合戦へ出陣する姿を再現した徳川家康像=浜松市中区の浜松城で

三方原の合戦へ出陣する姿を再現した徳川家康像=浜松市中区の浜松城で

  • 三方原の合戦へ出陣する姿を再現した徳川家康像=浜松市中区の浜松城で

◆竹千代→元信→元康 松平家康そして…

 徳川家康は、天文11(1542)年、三河国の岡崎城主(今の愛知県岡崎市)松平広忠とお大の子として生まれ、「竹千代」と名付けられました。当時の松平家は大名と言いながらも力が弱く、当時、東海一の大名であった今川氏に仕えていました。
 弘治元(1555)年、今川氏の人質になっていた竹千代は、14歳になりました。今川義元から元服することを許され、「松平元信」と名前をかえました。「元信」の「元」の字は、義元からもらいました。
 弘治3(1557)年、元信は、義元の勧めによって、今川一族の武将関口親永の娘(義元のめい)を妻に迎えました。後に築山殿と呼ばれる人で、16歳の元信より10歳も年上でした。この結婚を機会に、元信は尊敬する祖父の清康の「康」をもらい、「元康」と名前をかえました。
 永禄3(1560)年、桶狭間の戦いに敗れた今川氏は次第に衰えていきました。それまで今川氏のために織田氏と戦ってきた元康ですが、勢力を盛り返そうとしない今川氏に見切りを付け、永禄5(1562)年、織田氏と同盟を結びました。今川氏を敵と定めた元康は、義元から与えられた「元」の字を捨て、尊敬する武将源義家の「家」をとって、「松平家康」と名乗ることにしました。
 永禄9(1566)年、三河国を代表する大名になった家康は、将軍足利義昭を通して朝廷から三河守という役を与えられ、これを機会に「松平」を「徳川」に改めました。「徳川」は、家康の先祖が住んでいた上野国(今の群馬県)の徳川という地名から付けたと言われています。こうして、「徳川家康」という名前が誕生しました。
 家康が浜松に来たのは、元亀元(1570)年、武田信玄が遠江国(今の静岡県西部)に勢力を伸ばすのに備えるために本拠地を岡崎城から浜松城に移した時です。浜松城に来た時は、すでに「徳川家康」と名乗っていたことになります。
<もっと知りたい人へ>
参考文献:児童向け『マンガ静岡県史 天下統一篇』静岡県
見学場所:浜松城:中区元城町100-2

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