道を拓く スズキ インド進出の軌跡(4) マルチ800快走

2018年9月26日 02時00分 (5月27日 05時27分更新)

◆「早く」「軽く」「安く」貫く

マルチ800を生産する従業員ら=1983年12月、インド・グルガオンで(スズキ提供)

 スズキが資本参加したインド国営のマルチ・ウドヨグ(現マルチ・スズキ)は一九八三年五月、販売する自動車の予約を始めた。グルガオン工場の稼働は半年ほど先ながら、「マルチ800」など三車種に十三万台余の注文があった。販売計画の三年分に相当し、「本当に売れるか」との不安は消し飛ぶ。
 マルチ800は、軽自動車「アルト」をベースに開発された。排気量は八〇〇ccで、当時の軽の規格(五五〇cc)より大きく、日本で輸出向けに開発したエンジンを積んだ。価格は四万七千五百ルピーと百万円ほど。地場メーカーの車より安く、燃費も良かった。
 細部にはインド独自の仕様を施した。「実際に走って分かることがあった」。スズキのサービス担当社員だった川崎誠(81)は、八二年秋のテスト走行を振り返る。
 社長の鈴木修(88)=現会長=が「まずはインドの道を知るべきだ」と号令をかけ、川崎ら十人のテストチームが編成された。後のマルチ800、軽トラック「キャリイ」など四台を日本から持ち込んだ。
 北部の平原を延びるハイウエーでは、ぬかるみにはまったトラックが立ち往生していた。雨期に冠水しやすい路面はアスファルトがはがれ、辺りは大渋滞となっていた。川崎は運転する車の片側のタイヤを路肩に落とし、車体を傾けたままトラックをすり抜けた。
 約一カ月かけてインド全土の延べ八千キロを走ったが、マルチ800の性能なら十分に耐えられる、と川崎らは体感した。「パンクなど、走れなくなるダメージは受けなかった」
 それでも悪路を長く走るとタイヤをはめるホイールのリム部分が傷むため、鉄板に厚みを持たせた。前部バンパーは樹脂製だったが、インドの市街地では密集する人に押されてへこんだことから、板金で直せる鉄製に変えた。
 八三年十二月十四日、グルガオン工場で生産開始の式典があり、マルチ800の納車が始まる。当時の首相インディラ・ガンジーは、スピーチで目元をぬぐう。この日は、国民車構想と工場を残して急逝した次男サンジャイの誕生日でもあった。
 インドでもスズキはものづくりに妥協しなかった。車を構成する約三万点の部品を一グラムずつでも軽くする工夫を積み重ね、コストと燃費の低減につなげた。
 鈴木は工場を歩けば「一秒でも短く」とげきを飛ばす。生産ラインで従業員が歩く距離が短くなるよう改善を求めた。たった一秒も「十万台を造れば十万秒の削減になる」と徹底した。
 生産開始前、湖西市の工場でスペースを最大限に生かす現場を目の当たりにしたのが、マルチ社の現会長ラビンドラ・チャンドラ・バルガバ(84)だった。「効率や機能性がスズキのマントラ(真実の言葉)のように思えた」。当時の衝撃をこう本紙に伝えた。
 やがて欧米や日韓のメーカーが相次いで参入し、地場のタタ・モーターズが低価格を売りに攻勢をかけても、マルチ800の人気は衰えない。排ガス規制の強化もあって二〇一四年一月に生産を終えるまで、輸出分を含め累計二百九十一万台が造られた。終了時の価格は日本円にして約三十二万円台。三十年ものコスト努力が安さを保ち、庶民のための車であり続けた。
 一秒でも短く、一グラムでも軽く、一円でも安く-。車づくりの理想を今も追い求めている。(文中敬称略)

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