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週のはじめに考える 「よ党」「や党」「 党」

2022年2月27日 05時00分 (2月27日 05時00分更新)
 世に五十音表というものがあります。どうも、や行、わ行のイ段とエ段、わ行ウ段の五文字については、あ行の「い」「う」「え」を使うか、(い)のようにかっこ書きにする、もしくは、空白にするのが習いのようです。
 どうして、そんなものを改めて眺めてみたのかというと、や行ア段の「や」と、オ段の「よ」の距離のことを考えたからです。
 お察しの通り、きっかけは、野党のはずの国民民主党が政府予算案の賛成に回った一件。与(よ)党とも野(や)党ともつかぬ中途半端な立ち位置の党を呼んで「ゆ党」という言い方がありますが、これはもう、完全な「よ」ではないにしても、「ゆ」では足りない。ということで、さらに「よ」寄りの、や行エ段に思いを致した次第。右の方法に従うなら、彼(か)の党は「え党」か「(え)党」、もしくは、こう書いてもいいのかもしれません。
 「 党」

「野党」がいなければ

 空白といえば、最近、道端でこんな看板を見かけました。
 <  に注意! ××警察署>
 実は、こういう看板やプレートはそう珍しくありません。<危険!この付近、  の出没多し>みたいな警告も山中で見た覚えがあります。どれも黒の文字は残っており、別の色、恐らくは赤の塗料で書いた部分だけが風雨にさらされて消えたものと推察します。強調したかったからこそ選んだ違う色。それがかえって災いし、看板の存在意義を危うくしているのですから、何とも皮肉です。
 「や党」、いや野党の話に戻ると、その存在意義は、何も政治の話に限ったことではありません。企業など組織でも、もし、「こうしたい」とトップが言った時、賛同者ばかりで、「否」を言う者がいないのでは「考え直す」という選択肢も生まれ得ない。懐疑を呈す「野党」を説得する過程で思考や議論は深まり、最適解にたどり着きやすくもなりましょう。
 実際、入社式の社長訓示などでもよく耳にしませんか。「イエスマンになるな」という言葉。あれは、いわば「野党たれ」ではないのでしょうか。もっとも、現実にはこういうことも…。
      ◇
 ある企業の入社試験。最終面接に残った二人の学生に、社長が厳かに言った。「わが社にイエスマンはいらない」。一人目の学生は「おっしゃる通りです。異論があってこそ議論は深まり、別の選択肢が生まれ得る」。二人目の学生は「それは違うと思います。賛成なら賛成でいいはず。イエスマンはダメの決めつけは、逆に自由な議論を阻害するでしょう」。
 後日、内定の連絡を受け取ったのは、一人目の学生だった。

存在意義は何なのか

 ジョークはともかく、イエスマンとは逆の「何でも反対」「批判ばかり」というのが野党を誹(そし)る時の決まり文句です。赤ん坊は泣くのが商売、野党は批判するのが商売なのですから、気に病むこともなさそうですが、昨年の衆院選の不振がよほどこたえたか。野党第一党の立憲民主党が国会の質問で「批判型」から「提案型」への転換を図っているようです。
 でも、そのせいで追及の切っ先が鈍ったと見る向きもあります。「違う色」の強調があだになり、かえって一番の存在意義が損なわれるというのでは、あの「 」の看板と同じこと。第一、対案がなければ批判もできぬとなれば、本末転倒です。
 もし問題があるとすれば、批判すること自体ではなく、その「語り口」かもしれません。どんな正しいことも、けんか腰で言われれば耳をふさぎたくなるのが人情。野党議員がそうだと言うつもりはありませんが、では、批判を展開するのに、国民が思わず惹(ひ)きつけられるような「語り口」を持っているかといえば、少々心許(もと)ないのも確かです。
 首相や閣僚がはぐらかしばかりでまともに答弁しない理由の一つも「野党の質問は国民の胸に響いていない」と、たかをくくっているからではないでしょうか。

ジョークを交える余裕

 直線的な追及調の印象が強く、全体にユーモアが足りない気はします。立憲民主党は若手議員向けに国会質問の講習会を開いたそうですが、偉い西洋の思想家も<冗談は、しばしば真実を伝える手段として役立つ>と言っていることですし、そっち方面の勉強も考えてはどうでしょう。手厳しい批判や追及にジョークを交える余裕が見えれば、野党の「頼りない」印象も変わるかもしれません。
 何にせよ、「や」党第一党が批判を遠慮するようでは民主主義が揺らぎます。「や」から「よ」に一歩近づけば、や行イ段、即(すなわ)ち、それもまた「 党」です。

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