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なぜ織田信長は「たわけ」ではなく「うつけ」と呼ばれたのか?【企画・NAGOYA発】

2022年1月31日 11時50分

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織田信長像(長興寺所蔵、写真協力・豊田市郷土資料館)

◇奇抜な身なりや振る舞い
第4回「これって名古屋弁?」その3
 実は名古屋が発祥、由来だったという古今東西の事象を取り上げ、トコトン深掘りする企画。今回も名古屋弁にスポットを当てる。第3弾は『うつけ』。戦国武将の織田信長は「尾張の大うつけ」とあだ名されたことがよく知られているが、濃尾地方では同じ「愚か者」を意味する「たわけ」が使われることが多い。信長はなぜ「たわけ」ではなく「うつけ」だったのか?
  ◇  ◇  ◇
 「尾張の大うつけ」―。こんな表現をされる人物は世界でも1人しかいない。日本史の教科書や学習漫画に必ず出てくる織田信長だ。元服して那古野城(名古屋市)の城主になるも、若かりしころは奇抜な身なりや振る舞いで騒がせていた。

◇濃尾地方では愚か者を表す
 旧臣の太田牛一が著した『信長公記』によると、袖を外した浴衣に、半袴(はんばかま)姿で、腰に火打ち袋などさまざまな物を提げ、髪は茶筅(ちゃせん)まげだったという。このほか父・信秀の葬儀では焼香を位牌(いはい)に投げ付けたエピソードもある。

信長が居城としていた那古野城跡の石碑。名古屋城・二の丸跡にある=名古屋市で(鶴田真也撮影)


 そのため、民衆から「うつけ者」と呼ばれていた。信長公記にも「大うつけとより外に申さず候」など複数の記述がある。「うつけ」とは「からっぽ、ぼんやりとしている」などを意味し、漢字では「空け」「虚け」が用いられる。
 ただし、現代では「うつけ」という表現はほとんど聞かれない。しかも濃尾地方では愚か者を表す言葉として「たわけ」が有名だ。なぜ、信長は「大たわけ」でなく「大うつけ」だったのか。
◇『たわけ』は強いニュアンス
 あまり知られていないことだが、信長公記には信長を「うつけ」だけでなく「たわけ」とする記載も存在する。1553(天文22)年、義父にあたる美濃(岐阜県)の武将・斎藤道三と聖徳寺(名古屋市)で初めて顔を合わせる際に、道三が「婿殿は大だわけ」との報告を受けるくだりがある。尾張側では「うつけ」、美濃側では「たわけ」と疎んじられていたのだ。

中部大の水野智之教授(中部大提供)


 愛知県出身で、日本中世史に詳しい中部大の水野智之教授は「美濃の者が信長を『たわけ』と言っていたことが伝えられているので、『うつけ』よりも『たわけ』の方が相手をおとしめるニュアンスが強かった可能性を想定できる」と指摘した。
 「たわけ」については、江戸時代に分地制限令という法律が出され、農民が田畑を分割・相続することが禁じられ、「田を分ける」ことは愚かな行為であるとし、転じて愚か者を指すようになったとの説がある。
 ところが広辞苑で「たわけ」を引くと、真っ先に「みだらな通婚」と出てくる。さらに日本最古の歴史書とされる古事記に「上通下通婚(おやこたわけ)」「馬婚(うまたわけ)牛婚・鶏婚」とあることも紹介しており、本質は近親相姦(そうかん)、獣姦を表している可能性がある。

◇程よくディスった表現が「うつけ」
 水野教授も「ふらちな性的な行為を指す意味はある。日本の中世でも『おやまき』『母開(ぼかい)』という語があり、相手をののしる際に用いたようだ。意味は母子相姦であろうと考えられるが、原始社会の時代からタブー視されており、悪口として、これらの要素を含むものは相手を強くおとしめることになる」と解説した。

名古屋城の大天守=名古屋市で(鶴田真也撮影)


 つまり、程よくディスった表現が「うつけ」。安土桃山時代にイエズス会が出版した「日葡辞書」にはポルトガル語で「Vtçuqe」(ブツケ)とあり、当時の日本では広く使われていた語句のようだ。
(鶴田真也)

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