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【FC東京新時代】育てた2人の父と情熱 誰よりもチームを、サポータを愛した男たち

2022年1月17日 05時00分

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クラブ創設当時を振り返るFC東京元社長の村林さん

クラブ創設当時を振り返るFC東京元社長の村林さん

  • クラブ創設当時を振り返るFC東京元社長の村林さん
  • 鈴木がいまも大切に財布に入れているチームコンセプトと行動基準
 2月1日、FC東京の経営権をIT大手「ミクシィ」が取得する。前身の東京ガス時代から1999年にJリーグへ参入して以降、クラブが切り開き、培い、大切に育んできたものは何だったのか。多くの証言から過去、現在を振り返り、FC東京の未来像を探る(敬称略)。
   ◇   ◇
 村林裕(現横浜商科大教授)の“半生”はクラブの歩みと重なる。
 97年、東京ガスの支社長からサッカーチームのプロ化準備室に異動すると、東京を駆けずり回る日々だった。Jリーグの理念に沿い、「親会社の存在をなくすことが一丁目一番地だった」。中核企業8社と164の株主、年間チケットを所持する「ソシオ」を経営の柱に据えた。
 村林は早朝から駅でちらしを配り、商店街を回った。サポーターが集う居酒屋を巡り、意見や感想に耳を傾け議論した。試合運営をサポートするスポーツボランティアの存在を「むちゃくちゃ大事にした」。下部組織に在籍した選手を「永遠の仲間」と呼び、出身選手を見るために大学リーグやJ2、J3にも足を運ぶことが今もライフワークになっている。
 地方に比べて、ホームの意識が希薄な首都だ。だからこそ、「東京におらがクラブをつくろう」と使命感に燃え、靴底を擦り減らし続けた。
 村林はFC東京のファン、サポーターを誰よりも愛した。大学時代は応援指導部主将、いわゆる応援団長。サポーターの雰囲気が緩いと感じれば「ハーフタイムにゴール裏へ怒鳴りに行った」
 実直、真面目で曲がったことが大嫌い。しかも泥くさいこともいとわない。常務、専務を経て、2008年に社長就任後も一貫した姿勢は不変だった。クラブカラーの青赤は「清潔さと情熱」の意。まさにクラブそのものを体現する存在だった。
 「味スタが満員になり、盛り上がっているのが一番うれしかった。サポーターの熱量が僕の感情のバロメーターだった」
   ◇   ◇
 「強く、愛されるチームをめざして」
 FC東京のスローガンの生みの親、鈴木徳彦(現J2岡山代表取締役)が歩んだ四半世紀の道程は、いつもこの言葉と一緒にあった。
 1988年に現役を引退後、母校の慶大コーチを経て東京ガスサッカー部に復帰。強化運営の責任者としてチームの強化に奔走した。93年に現在の味スタ建設計画が公となり、東京ガスを母体にJクラブをつくろうという機運が高まったが、当時の上層部が下した最終決断は「時期尚早」だった。
 「公益企業単独でプロチームを担うには限界があると言われた。残念な気持ちと、正直、ほっとした」
 プロ化を逃して、なぜ安堵(あんど)したのか。「プロ化に踏み切ったら社員選手が隅に追いやられるかもしれないから」。そうした事例もあっただけに、同じ轍(てつ)を踏みたくなかったのが本音だった。
 96年には3年後のJ2参入に向けてプロ化の舵(かじ)が切られる。鈴木は当時の東京ガスサッカー部部長・鳥原光憲を「ここまできて逆戻りはない」と説得した。翌97年に天皇杯の準決勝に進出したことも追い風となった。そこで生まれたのが「強く、愛されるチームをめざして」を柱にしたチームコンセプトだった。
 「東京ガスサッカー部はこういうチームだと言語化した方がいいと思ってつくったんだよね」
 鈴木は「今も大事に持っているんだ」と言い、一枚の紙を財布から取り出す。そこには当時から変わらぬコンセプトにアカデミーを含む全選手に向けた行動基準も加えられていた。
 「これが、最後の俺の仕事になっちゃったんだけどね」
 選手の強化に関わる仕事は誰からも好かれるわけではない。だが、実は人情味があって涙もろい。「このあいだも」と言って、共に闘った仲間たちとの話を喜々として話す。愛されるチームづくりを目指した鈴木は、誰よりもFC東京を愛した一人だった。

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