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藤野公平(1913〜90年) 石川県珠洲市 日本発酵化成 創業者

2021年12月29日 05時00分 (12月29日 11時07分更新)
藤野公平(日本醗酵化成提供)

藤野公平(日本醗酵化成提供)

  • 藤野公平(日本醗酵化成提供)
  • 祖父の時代から使っている焼酎タンクの前で思い出を語る藤野裕子=石川県珠洲市野々江町で
  • 日本発酵化成創業時の記念写真。右端が藤野公平=1947年(日本醗酵化成提供)

能登で焼酎 芽吹かす

 石川県で唯一の麦焼酎メーカーとして「ちょんがりぶし」や「虎の涙」を製造する珠洲市の日本発酵化成。創業者の藤野公平は、日本酒文化が強く、焼酎不毛の地だった県内で製造に成功し、会社の基礎を築いた。(上井啓太郎)
 会社を引き継いだ三男の裕之(75)は父親を「信念の人だった」と語る。「俺がやらねば誰がやる」が座右の銘。「家族は大変だった」と苦笑いしつつも「自分の信念を通して最後まで突っ走った人だった」と振り返る。一方「忙しくてなかなか帰れないから」と言って、干支(えと)が丑(うし)の自身の代わりに、家に一メートルほどの牛の像を置くなどユーモアある一面もあった。
 珠洲市飯田町のしょうゆ蔵の家の跡継ぎ。小豆島の蔵で修業したが、そこで発酵を科学的に勉強したいと思い立ち大学まで進んだ。戦時中は旧満州(中国東北部)の研究所で当時の先端技術だった「合成清酒」の研究を行い、終戦後の一九四七年に日本発酵化成を立ち上げた。
 当初は合成清酒を生産。終戦直後で酒不足だったこともあり売り上げは伸び、それを元に焼酎の生産にも乗り出した。焼酎を選んだ経緯ははっきり分かっていないが、孫で現在蔵の管理にも携わる裕子(43)は「人と違うことを好む性格があったのでは」と推測する。能登で生産することにこだわり、焼酎をふるさとである珠洲の特産にしたいと常に考えていた。
 しかし、当時石川県に焼酎の職人はもちろんいない。日本酒の杜氏(とうじ)を雇い、自身の研究成果を基に、綿密な指示を出して生産を始めた。口癖は「売るな、寝かせとけ」。焼酎を売らず、熟成させておくように厳命した。焼酎はタンクにたまり続けた。仕事の拠点だった大阪から帰ってきた際、焼酎の味見をする姿が裕子の目には焼き付いている。
 九〇年、大阪から珠洲に拠点を戻す予定だったその日に心不全で亡くなった。現在、同社は当たり前のように貴重な十年物、三十年物の焼酎を販売しているが、それは「とにかく熟成させる」という藤野の方針の遺産だ。「焼酎の生産を何もないところから始めたのはすごい。できるかぎり、この熟成を大切にするポリシーを引き継いでいきたい」。裕子はタンクに語りかけるように言う。(敬称略)
  ◇     ◇     ◇
 次回は、石川県小松市で謡を教え、能楽振興に貢献した同市出身の麦谷万次郎(一九〇九〜九七年)を紹介します。

【プロフィール】ふじの・こうへい=1913(大正2)年、石川県珠洲市出身。日本発酵化成の経営のほか、51年に同県議に初当選、4期務めた。水不足に苦しんでいた珠洲のためにと、若山ダムの建設に尽力。旧七尾市側と能登島を結ぶ能登島大橋の提唱者の一人でもあった。77歳で死去。


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