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橘 礼吉(1931〜2019年) 金沢市 白山麓の民俗誌刊行

2021年12月8日 05時00分 (12月8日 10時00分更新)

足で稼ぎ 真心で取材

 山を愛した。石川県白山市の白峰地区に足しげく通い、山中に住まいを構えて焼き畑や養蚕に精を出す「出作り」の生活文化を丹念に調べた。研究の集大成は六十、八十代の時に出版。「その二冊がなければ、白峰は貧しい山村という薄っぺらな地域観しか残らなかった」と功績を高く評価する声がある。長年の探求には、未踏の地を目指す登山者ならではの情熱がにじむ。(押川恵理子)
 金沢市立工業高校で社会科を教え、休日は白山麓のフィールドワークに没頭した。「小説なら売れるかもしれないが、これはもうからん。誰からも見向きもされない仕事やぞ」と冗談めかして家族に語ったが、「山に登っていると、ご機嫌やった」と六十年連れ添った妻の繁子はほほ笑む。白峰との深い縁は二人の新婚時代にさかのぼる。

焼き畑農耕を指導する橘礼吉=2014年夏ごろ、石川県白山市で(石川県立白山ろく民俗資料館提供)

 結婚から半年たった一九五九(昭和三十四)年一月、橘は白山に登り、弥陀ケ原で右足を骨折した。身長一八〇センチ強の橘をそりに乗せ、助けたのは旧白峰村の出作り集落の人々だった。
 当時、出作りは急速に衰退。人が住まなくなった山中の民家は豪雪などで倒壊していった。橘は奥山の生活文化を詳細に記録しようと決意する。けがの時に助けてくれた恩返しの思いもあった。六九年、焼き畑農耕の本格調査に乗り出す。
 橘の研究は出作り民家の保存につながった。七〇年に石川県教委が白峰村の建物を緊急調査する際、橘は出作り民家も調査対象にするよう県教委と村に要望した。却下されると、文化庁の担当者に私信で懇願した。調査に追加された尾田家は七八年、国指定重要有形民俗文化財に選ばれた。焼き畑農耕の道具も保存されることになった。

出作りについて住民の織田佐吉さん(左)に取材する橘=1971年ごろ、石川県の旧白峰村で(石川県立白山ろく民俗資料館提供)


 橘による膨大な調査資料は白山市の県立白山ろく民俗資料館が保管している。親交が深かった館長の山口一男(いちお)(72)は「フィールド絶対主義。橘さんは車道のない山道をどれだけ歩いたか。膨大な時間を費やして足で稼いだ」と話す。
 白峰村桑島地区で生まれ育った山口は「地域の人にとって、外から来た研究者の書くものは違和感があったが、橘さんのものにはなかった。自分の興味だけで取材するのでなく、生活の中に深く入っていた」と振り返る。地下足袋と作業服を着た長身の橘が背を丸め、白峰の人々と話していた姿をよく覚えている。橘は山菜採りや報恩講にも招かれ、親戚付き合いのような人間関係を築いていた。
 研究への情熱は尽きなかった。なぜか。橘は、八十代で出版した「白山奥山人の民俗誌」の序章でこうつづった。「登山者は『誰も登っていない峰・岸壁・渓谷の初登攀(とうはん)に執着する』くせがある」。民俗学で独自の頂に立った。(敬称略)
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 次回は「日本サッカーの父」と称されるドイツ人指導者デットマール・クラマーの指導法を石川に伝え、北陸のサッカー界の発展に貢献した石川県サッカー協会元会長の盛大衛(一九三五〜二〇二〇年)を紹介します。

【プロフィール】たちばな・れいきち=1931(昭和6)年、金沢市生まれ。金沢大在学中の51年、地理学者の幸田清喜氏の出作り調査に同行した。95(平成7)年、「白山麓の焼畑農耕」を刊行し、優れた民俗学の業績に贈られる柳田国男賞を受賞。2015年、研究の集大成となる「白山奥山人の民俗誌」を刊行した。石川県立歴史博物館副館長や加能民俗の会会長などを務めた。88歳で死去。


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