松坂大輔、最後の5球「諦めの悪さを褒めてやりたい」の言葉とともに永遠に忘れない
2021年10月20日 10時42分
◇ヘンリー鈴木のスポーツ方丈記
胸の鼓動が止まったかのように思えたのは、松坂大輔の3球目だった。
プレーボールからの1球目、高めに大きくすっぽ抜けた118キロ(ボール)。「さすがの松坂も緊張は隠せないのだろう」。現役最後の登板を見つめる思いは、たかまった。捕手の森が、メモリアルボールを三塁側の西武ベンチに投げ渡す。
2球目、日本ハムの左打者近藤健介の外角にシュート回転して沈み込むストライク。球速は118キロだった。「すっぽ抜けた1球目と同じスピード?」。違和感を覚えたが、多彩な球種で打者と勝負をしてきた松坂らしいストライクの取り方だと思うことにした。私の中には2000年代の西武、そしてレッドソックスで投げていた松坂の1球1球が奥深く染み込んでいる。
しかし、現役最後の登板で変化球を連続で投げるのは理解に苦しむ。もしかしたら…いやいや、そんなはずはない。
3球目は、腕の振りを凝視することにした。体を思い切り使い、右腕を強引と思うくらいに振っていた。外角高めに外れた球は…117キロ。
間違いない。松坂は3球連続でストレートを投げていた。
その後の2球は、自分が何を考えていたか、あまり記憶にない。両チームのベンチ、スタンドのファンが総立ちとなって見つめる中で高めに浮いた4球目の116キロ、近藤が腰を引いてよけた5球目の内角116キロを、ただ呆然と見ていた。
試合前、松坂は会見でこう話していた。
「本当は(きょう)投げたくなかった。もうこれ以上、駄目な姿は見せてはいけないと思ったけど、最後はユニホーム姿でマウンドに立つ松坂大輔を見たいと言ってくれる方々がいた。もうどうしようもない姿かもしれないけど、最後の最後、全部をさらけ出して見てもらおうと思った」
日米通算377試合、1999年のデビューから90、00、10、20年代の4年代で登板した松坂のプロ人生が41歳で幕を下ろした。
横浜高時代に球速が既に150キロを超え、98年夏の甲子園では準々決勝のPL学園戦で延長17回250球を投げ完投勝利、決勝では京都成章を相手にノーヒットノーランの快挙を成し遂げ、春夏連覇。それだけに、肩の酷使からプロに入って活躍できなかった投手たちと同じ道をたどるのではと、当時の私は思っていた。
そんな懸念を吹き飛ばす西武での活躍に驚いた。「間違いなく怪物だ」と確信し、2007年にはレッドソックスに移籍した松坂を追い掛けて米国にも渡った。報道陣の殺到で球団が取材の厳戒態勢を敷く中、私が東京新聞主催、東京中日スポーツ後援の学童野球全国大会で子どもたちを激励するサインボールをお願いすると「子どもたちのためなら喜んで」と、目を細めてサインをしたためてくれた。松坂が足を滑らせてその後の投手生命を左右する痛みを右肩に抱えるようになったのは、その翌年のことだった。
私が松坂を偉大な投手だと思うのは、そのような状況に置かれても野球を心から愛し、ベストな投手になることを最後まで追い求め続けたことだった。「諦めの悪さを褒めてやりたい」。最後の5球を、この言葉とともに永遠に忘れない。
◆ヘンリー鈴木(鈴木遍理) 東京中日スポーツ報道部長、東京新聞運動部長、同論説委員などを経て現東京中日スポーツ編集委員。これまで中日ドラゴンズ、東京ヤクルトスワローズ、大リーグ、名古屋グランパス、ゴルフ、五輪などを担当。
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