技術と理論と人間性…ビシエドの活躍で噛みしめるパウエルの偉大さ 彼がスラム街で暴力や犯罪に「ノー」と言えた理由
2021年9月23日 10時28分
◇渋谷真コラム・龍の背に乗って ◇22日 中日2-1阪神(バンテリンドームナゴヤ)
球団記録に並ばれたアロンゾ・パウエル打撃コーチが来日したのは、1992年5月。シーズンは開幕していたが、外国人選手が故障したための緊急補強だった。2016年に加入したビシエドと同じ27歳。日本でのキャリアをスタートさせた年齢だけでなく、2人の数字は驚くほど似通っている。
パウエルが2609打数817安打(阪神時代含む)、116本塁打。ビシエドが2608打数765安打、117本塁打。打率ではパウエルが勝り、本塁打はほぼ同数。どちらも首位打者経験者だが、外国人で唯一、3年連続で獲得したパウエルをも上回っているのが、ビシエドの三振の少なさだ。パウエルの443に対して372。1割4分3厘は卓越したコンタクト力の証明だ。
「ビシエドはすごくいい選手。記録はいつか破られるものだから、うれしいです。彼はこれからも野球を長くやる。将来的には1000本以上、狙ってほしいと思います」
並ばれたことで、改めてかみしめるパウエルの偉大さ。そしてキャリアを終えれば日本を離れる外国人の記録なのに、なぜその瞬間に立ち会えたのか。打撃コーチの肩書は、技術と理論だけで与えられたのではない。豊かな人間性を物語るエピソードがある。
1996年3月29日。パウエルは名古屋市内で小中学生250名を前に、熱いメッセージを発信していた。「少年の非行防止講演会」を友人たちと主催。サンフランシスコのスラム街で生まれ育ち、周囲は貧困と暴力と犯罪への誘惑に満ちていた実体験を、語り聞かせた。
「僕には野球選手になって、お母さんに大きな家を建てるという夢があったから『ノー』と言えた。でも僕といっしょに野球をやっていた親友は、夢を忘れて麻薬に手を出して、銃に撃たれて死んでしまった。あんな悲しいことは君たちに起こってほしくない。だから夢を忘れないで」
犯罪ではなく、バットで稼ぎ、家を建てた。そのチャンスを与えてくれた日本とドラゴンズを、彼もビシエドも愛している。
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