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<2020主役候補のルーツ>ソフトボール・上野由岐子 大けがと引き換えに気付いた「絆」の大切さ

2020年2月15日 02時00分

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高校時代、世界ジュニア選手権(1999年)に出場したときの上野由岐子(福岡大付属若葉高提供)

高校時代、世界ジュニア選手権(1999年)に出場したときの上野由岐子(福岡大付属若葉高提供)

 その背面跳びは美しかった。だが着地点にはマットがなかった。日本ソフトボール界の至宝、上野由岐子(37)=ビックカメラ高崎=を変えた事故は、あまりにも痛ましい。九州女子高(現福岡大付属若葉高)2年の7月、体育の授業で走り高跳びの練習中に腰椎を骨折。同級生にいいところを見せようとしただけだったが、跳んだことのない高さに挑んだらマットも越えてしまった。
     ◇  ◇
 中学時代からすでに投手・上野の名は全国に響いていた。「これが中3の投げる球か、と思いました。ボールが大きく迫ってくる。本当にそんなイメージで」。当時の九州女子高コーチで、現在は監督を務める粂本健さんはその衝撃を語る。
 夏の全国中学校大会を前にした7月、中学生の上野は九州女子高と練習試合をした。球審で打者の真後ろにいた粂本さんは、上野がマウンドに立った瞬間、ベンチに顔を向けて監督と交わした妙な会話を覚えている。
 「監督、どうしますか?」
 「いや、相手は高校生だから、きょうは一生懸命投げていいよ」
 ボールを見れば、その会話の謎がすぐに解けた。「中学生相手の練習試合で、本気で投げてしまうと三振ばかりで相手にならなかったんだな」と粂本さん。上野が高校に進むと、その予想は確信に変わった。
 上野が名門、夙川高(兵庫)に進むことは周知の事実だった。だがその秋、夙川高の不祥事が発覚。期せずして“第2次上野争奪戦”が勃発する。九州女子高の平島広昭監督(2003年死去)が熱心に口説き、上野は地元・福岡で道を歩むことに決めた。
 上野が加わったことにより、チームの全国高校総体の3年連続出場は決まったも同然だった。それほどの異才である。平島監督が何よりも恐れていたのは、けがだった。「来てくれたのはいいけれど、彼女を壊しようもんなら、うちのチームだけじゃない。日本中から何を言われるか…」。そしてその不安は現実になってしまう。
 冒頭に記した腰椎骨折により、翌年のシドニー五輪代表候補入りは立ち消えとなった。その年の夏の全国高校総体出場も断念。歴代最強の布陣で日本一も期待されていたが、チームはエースの不在にもかかわらず全国ベスト8まで駒を進める意地を見せた。その躍進を見た上野はこうつぶやいたという。
 「今までは最悪、自分が全部三振取ればいいんでしょ、みたいなところがあった。だけどそうじゃないんですね」
 頼るものは自らしかいない、と決めつけていた孤高の存在が、仲間の絆の大切さを知った瞬間だった。粂本さんは「もともと落ち着いた子だったけれど、落ち着きが増した。自分の体についてもきちんと考えるようになりましたね。人間的に一つ成長する要因でした」と受け止める。
 2008年北京五輪、上野は2日間で3試合連投し、世界の頂点に立った。日本中に感動を呼んだ熱投は「上野の413球」として語り継がれている。ソフトボールが五輪種目から除外されて12年。“生きる伝説”の物語は続いていく。東京の大舞台で再び栄冠をつかむまで。 (平野梓) =おわり
<上野由岐子(うえの・ゆきこ)> 1982(昭和57)年7月22日生まれ、福岡市出身の37歳。174センチ、72キロ。右投右打。柏原中、九州女子高(現福岡大付属若葉高)を経てルネサス高崎(現ビックカメラ高崎)に所属。2004年アテネ五輪で銅メダル獲得。優勝した08年北京五輪での熱投は「上野の413球」として流行語になった。

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