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「共生社会」進む契機に 東京パラ開幕57年ぶりの期待 障害者への配慮、教育…なお課題

2021年8月25日 05時00分 (8月25日 05時01分更新)
1964年の東京パラリンピックでボランティアを務めた吉田紗栄子さん=東京都港区で

1964年の東京パラリンピックでボランティアを務めた吉田紗栄子さん=東京都港区で

  • 1964年の東京パラリンピックでボランティアを務めた吉田紗栄子さん=東京都港区で
  • DPI日本会議の白井誠一朗さん=東京都千代田区で
  • 1964年の東京パラリンピックに出場した近藤秀夫さん=高知県安芸市の自宅で(本人提供)
  • 1964年東京パラリンピックの車いすバスケットボール。日本対フィリピン戦=東京都渋谷区の国立屋内総合競技場で(国際ストークマンデビル競技会の記録集から)
 東京パラリンピックは「多様性と調和」を基本コンセプトの一つに掲げる。障害者の人権尊重や社会参加は、一九六四年の東京パラリンピックが一つの契機となって前進した。しかし、幅広い分野のバリアフリーやインクルーシブ(包摂)教育など課題は多く、行政の対応と社会全体の理解が必要だ。 (臼井康兆)

■ジャケットなし

 二十四日夜、東京パラリンピック開会式のテレビ中継を、高知県安芸市の近藤秀夫さん(86)が見詰めた。「五十七年前はこんなに華やかじゃなかったなぁ。大柄な外国選手の間に埋もれていた気がします」。十代で事故に遭い、下半身まひに。二十九歳の時、前回東京大会にアーチェリーなど六競技で出場した。
 当時、車いすの障害者は療養所などで人目を避けるように暮らしていた。選手といっても、スポーツ経験は乏しい。開会式では、五輪選手に支給された赤いジャケットはなく、えび茶の地味なトレーナー姿。「寒々しかった」という。
 一方、外国選手は陽気で快活だった。「車いすでも公営住宅で普通に暮らしていると聞き、驚いた」と近藤さん。先進国の障害者には、生活の安定や自立があった。「大きな窓をパッと開け、すごい風を肌で受けたような...

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