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東京には気をつけろと言われていた。転んだはずみで袋が破れ、赤いダイヤと言われた小豆がバラバラと一気に坂を転がった。通行人らが懸命に拾ってくれて本当にうれしかった【北の富士コラム】

2020年5月25日 21時25分

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4度目の優勝を飾った千代の山=1955年1月

4度目の優勝を飾った千代の山=1955年1月

 それでは2日目からの流れから、このまま一気に出羽海部屋入門当時にタイムスリップしましょうか。
 時は1957(昭和32)年1月。厳寒の旭川駅を後にする少年、竹沢勝昭。駅の構内には三橋美智也の「リンゴ村から」の歌が流れていたのを覚えています。函館からは青函連絡船。冬の荒れ狂う津軽海峡の揺れはものすごく、ニシン漁の船とは比べようもないほどの激しいものでした。
 道中、母が持たせてくれたにぎり飯もどこかに転がっていってしまいました。翌朝、上野駅に到着。とにかく朝だったと思います。連れて来ていただいたおじさんは、もう何度も来ているようでしたが、どうやら出口を間違え、動物園口の方から出ました。
 今乗ってきた汽車のホームにお相撲さんが1人いました。この人が迎えに来たお相撲さんだと考えていました。まるで夢を見ているような変な感じ。「ここが東京か」と思ったら急に北海道に帰りたくなりました。
 ボーッとしながら坂道を歩き始めると、足を滑らし、ひっくり返りました。靴ではなく私はげたを履いていたのです。東京へ行ったら着物を着て、どうせげたを履くのだからと家を出る時からげたでした。ご丁寧に滑り止めの金具を打ってくれていたのが悪く、アスファルトの道路で滑ってしまったのです。田舎の人は東京もまだ道は土と思っていたんですね。
 転んだはずみでお土産に持ってきた小豆の一袋が破れ、赤い小豆がバラバラと一気に坂を転がっていく。私はぼうぜんと見ているばかりでしたが、このあたりの土産屋のおじさんや通行人が一生懸命拾ってくれました。

 あの当時、小豆は赤いダイヤと言われ、東京でも珍重されていたらしく、私をスカウトしてくれた千代の山関と出羽海親方、そして、おじさんがいつも泊まる旅館へのお土産として持たせてくれました。東京に行ったら気をつけろと言われていたから、親切は本当にうれしかったものです。
 やっとタクシーに乗って、両国の出羽海部屋に着きました。あのころのタクシーはルノーだったと思います。生まれて初めてタクシーに乗れたのも、うれしいことでした。
 「東京へ来てよかったなあ」と思いながら出羽海部屋の玄関に入った途端、楽しい夢が一気に吹っ飛んでしまいます。
 「ごめん下さい」「ハーイ」と出てきたお相撲さんのでかいこと。当時、私は180センチあって、田舎では自分より大きい人をあまり見たことはありません。ところがその若い力士は2メートル近くもあり、とにかくでかい。声もでかい。顔も大きくて怖い。それだけで「早く帰りたい。殺される」と思いました。
 親方と千代の山関に会って、おじさんが国に帰る時、一緒に帰ろうと本当に思ったのです。さて、これから先どうなりますやら。4日目に続きます。今回は連載物になりそうです。お付き合い願います。(元横綱)

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