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戦争孤児泣きながら死んだ 忘れないで体験語る

2021年8月10日 05時00分 (8月10日 10時56分更新)
戦争孤児として駅を転々とした体験を語る小倉さん=京都市内で

戦争孤児として駅を転々とした体験を語る小倉さん=京都市内で

  • 戦争孤児として駅を転々とした体験を語る小倉さん=京都市内で
  • 1945年3月、敦賀北国民学校の学芸会で主役の桃太郎を演じた6年生の小倉さん=本人提供

敦賀空襲後路上生活の小倉さん


 太平洋戦争終盤に敦賀市であった敦賀空襲で母親を亡くし、戦後に孤児として福井や大阪などの駅を転々として生き延びた男性がいる。同市出身で京都市に住む小倉勇さん(89)。食べていくために仲間と盗みを繰り返した。「胸を張って言う話じゃない」とこれまで過去を語ってこなかったが、社会の戦争への記憶が薄れていく中で「僕たち戦争孤児が歴史に何も残っていない」と重い口を開き始めた。 (高野正憲)
 一九四五(昭和二十)年七月十二日の夜。当時十三歳の勇さんは近くの父方のおばの家から帰る途中、米軍の空襲に遭った。「焼夷(しょうい)弾と爆弾が、まぜこぜに落ちてくる。恐ろしくって必死に街の外へ逃げた」。翌朝、街へ戻ると母まつさんは近くの貯水槽で亡くなっていた。足を骨折していたため、逃げ切れず飛び込んだのだろうか。「本当に悲しいと涙も出ない」。学校で百点を取ると、鍋焼きうどんを食べに連れていってくれた。それが働き者の母との唯一の思い出だった。
 父は軍属の船員として朝鮮半島に出ており、復員後すぐに病死。身寄りのない勇さんは近くの親戚の家を転々とした。終戦前後の物資が乏しい時代、居候は冷たくあしらわれた。一年余りたって、耐えかねた勇さんは敦賀を飛び出し、福井駅に向かった。「戦争より苦しかった路上の生活」が始まった。
 福井駅で出会ったのは、同じく孤児で一歳年下の山ちゃんとカメちゃん。本名は知らない。お互い過去は聞かないのが暗黙の了解だった。闇市のある武生駅に移って、空腹を満たすため三人で空き巣に入った。取った金で買った薄いおかゆをすすり、駅近くの神社のえんま堂で眠った。一カ月が過ぎ、「大阪に行こう」と勇さんは切り出した。
 だが、たどり着いた大阪駅で「地獄を見た」。ガード下には、自分より年下の孤児が多くいた。幼い子どもは盗みができない。駅の利用客へ物乞いをしては、たたかれ、蹴飛ばされ、泣いて死んでいった。
 盗みで何とか命をつなぎとめていた勇さんも、栄養失調のせいか、両目の視力を失った。さらに移った東京では、カメちゃんが電車に飛び込んで命を絶った。「孤独になったんじゃないかな」と勇さんは胸中を酌む。
 二年間の過酷な路上生活は、京都駅で保護されたことで終止符が打たれた。孤児を収容する京都市内の施設「伏見寮」の指導員「黒羽先生」に銭湯へ連れ出され、勇さんは背中をゴシゴシと洗われた。久しぶりの優しさに触れて「びっくりした。この先生の言うことを聞かないと、俺はクズになる」。路上での生活で募らせた大人への反抗心が、一気に解きほぐれた。「僕たちはぬくもりを求めていたんですよ」
 黒羽先生は「君には勉強をして社会に役立つ人間になってほしい。悲しいことがあったら、ここに帰ってくるんやで」と説いた。この言葉を支えに盲学校に通い、卒業後はマッサージ師として生計を立てた。
 二〇一九年に敦賀空襲の日に合わせ敦賀市の本勝寺で法要が開かれると聞いて以来、毎年参列している。今年の七月十二日、勇さんは両手の指をがっしりと組み、目に涙を浮かべて祈りをささげた。「とにかくこの日が来ると怒りと悲しみが込み上げる」。法要を終えて言った。
 ここ五年で自身の体験を語る活動に力を入れている。思い浮かべるのは、死んでいった孤児たちだ。「戦争をしたのは大人の責任なのに、犠牲になるのはいつも一番弱い人たち」。彼らが歴史から忘却されるのが許せない。「泣きながら路上で死んだ子どもがいたことを伝えていかないと」と、言葉に力を込めた。

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