本文へ移動

「民」はどこへ行った 五輪開幕に考える

2021年7月24日 05時00分 (7月24日 05時00分更新)
名古屋五輪招致失敗時の中日新聞1面と社説の紙面

名古屋五輪招致失敗時の中日新聞1面と社説の紙面

 きのう開幕した東京五輪の無観客映像を目にして、一抹の寂寥(せきりょう)とともによみがえる四十年前の記憶がありました。一九八一年十月二日付。私ども中日新聞社の社説です。
 八八年夏季五輪の開催地選考で韓国ソウルに敗れた「幻の名古屋五輪」への論評でした。
 「だからいったではないか」
 名古屋の地元紙にしては、その見出しが、やけに冷めた物言いだったのを思い出します。
 なぜこんな見出しになったか。当時の紙面をたどると、現代に通じる民主主義と政治のあるべき形が見えてくるようです。
 五輪招致が名古屋で動きだした七〇年代後半、日本経済はとうに低成長、財政難の下り坂を降り始めていました。けれども招致当局の自治体は旧態依然。五輪カードを使って地域の振興、開発を有利に運ぶもくろみでした。

万事知らしむべからず

 環境面などから反対運動も出ていたが、政治の思惑を先行させる当局に取り合う余地はない。「何のための五輪か」。まともな理念はなく、説明もない。市民は徐々に冷めていきました。
 市民が五輪に燃えないのは「理念がはっきりしないから」と考えた自治体はある日、東西の文化人を集め「理念を語る会」を開きました。だがこれも「市民自身が決めること」と一蹴され、市民不在への批判が沸騰したそうです。
 「一事が万事これ式で『よらしむべし、知らしむべからず』ではたまらない」。社説は招致後の社会分断をも見通し、民主的な招致プロセスを求め続けました。
 そして得た教訓が「民主主義の原点を忘れた思い上がりの運動は結局成功しない」のだと。これが名古屋落選の一因であり、社説の真意でもありました。
 さて、あれから四十年後の今に刺すこの成句。「民は由(よ)らしむべし知らしむべからず」とは−。
 「論語」の原意から転用した徳川家康の解釈は「為政者は人民を施政に従わせればよいのであり、その道理を人民に分からせる必要はない」とされます。いわば封建時代の政治原理が、今日再び東京五輪にも重なります。
 開催都市・東京でコロナ禍の感染がまさにピークを突く中、迎えた開会式でした。会場に「民」の姿はない。直前でも「五輪で感染拡大」を不安視する国民が九割近く。何もかもが異常です。
 なのに大会当局は一貫して中止論議を封じ、まず開催ありきで突き進む。「何のための五輪か」。納得いく説明はありません。

忘れるわけにはいかぬ

 六月初め。政府の専門家が、コロナ禍の現状で五輪開催は「普通ない」が、開くなら「何のためにか」説明が必要と公言した時。担当閣僚の反応が強烈でした。
 「(政府側は)スポーツの持つ力を信じてやってきたが、全く別の地平から見てきた言葉をそのまま言っても通じづらい」
 専門家が代弁した国民の素朴な疑問は「別の地平」からの遠吠(ぼ)えだったのか。これぞ「知らしむべからず」の真骨頂でした。
 それにしてもこの政治と「民」を分断する壁の厚さはどうか。
 ひとたび選挙を経て権力を手にすれば、あとは民意との信頼関係を遮断。批判の声は虚偽、隠蔽(いんぺい)でかわし、国民が忘れるのを待てばいい。五輪に限らず、ここ何年も私たちが目の当たりにする「民」なき政治の不条理です。もはや真の民主主義ではありません。
 政界では、今秋の衆院総選挙に向け五輪成功を浮揚力にしたい、との政権の思惑が語られます。それ故か、五輪優先でコロナ対策のちぐはぐが続き、陰で幾多の人々の命や店や職が失われました。ただこの失策も、五輪選手の活躍に熱狂する裏で、国民は忘れてくれるとの読みがあるようです。
 しかし大会の熱狂は別として、私たちは忘れるわけにはいきません。何も知らしめられず政治の犠牲となった「民」の無念を。忘れたら、また「知らしむべからず」の闇夜が続くからです。
 思えば四十年前のあの社説も、民意を蔑(ないがし)ろにする権力の思い上がりを戒めていました。
 忘れぬことによって、真の民主主義の底力を示し、ついには「封建時代の原理」を終わらせなければなりません。いろいろあったこの東京五輪をこそ奇貨として。

関連キーワード

PR情報