本心<35>

2019年10月11日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第三章 再会

 ソファを勧められ、僕はアイスコーヒーを注文した。
 テーブルの上には、既にヘッドセットが準備されている。僕が自宅に所有しているものとは違い、最新の軽量化されたものだが、その中に母がいるというのは、ほとんどお伽話(とぎばなし)めいていた。
 ロボットはすぐに飲み物を持ってきた。大きなグラスで、冷たく濡(ぬ)れていたが、人の手首を掴(つか)んでいるような感じがした。暑さだけでなく、やはり緊張のせいで、僕は酷(ひど)く喉が渇いていた。
 野崎は、
「たくさんの資料をご提供いただきましたので、とても助かりました。会っていただくのが楽しみです。もちろん、これはβ版ですが。」
 と歯切れ良く言ったが、顧客相手ではなく、友人と談笑している時にも、その認識に変わりはないのだろうと思わせるところが、彼女の口調の独特な魅力だった。
 それは、機械的に反復される決まり文句とも、或(ある)いは、素朴な率直さとも、それぞれに対極的なのだろう。というのも、こんな仕事をしていれば、嫌でも、人間らしさについての洞察が深まらずにはいられないはずなので。
 野崎は、やはり実感を疑わせない表情で、
「とても素敵(すてき)なお母様ですね。」
 と言葉を添えた。
 僕は正直に喜んだが、そこに微(かす)かに入り交じっている反発を、彼女が見越した上で、敢(あ)えて言っているのもわかった。
 簡単な説明を受けると、グローブを填(は)めて、ヘッドセットを装着した。
 最初は小鳥のさえずりが聞こえる森林風の操作画面で、カンランシャのロゴがゆっくりと回っている。イヤフォン越しに、「Enter」というボタンを押すと、母と対面できると告げられた。
「クリックしてから、三秒、間があります。――その時間も、変更可能ですので、あとでご自由に設定してください。――没入感を増すために、そこで一旦(いったん)、目を閉じられることをお勧めします。一般的な仮想空間の利用と同じですので、よくご存じですよね?」
 僕は、「……はい、」とだけ頷(うなず)いた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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