本心<36>

2019年10月12日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第三章 再会

 ソファに座ったまま、手を伸ばしてボタンを押すと、言われた通りに目を閉じた。
 無音になり、やがて遠くから、蝉(せみ)の鳴き声が聞こえてきた。僕は、それに驚いて、不用意に目を開いた。
 飛び込んできたのは、予期せぬ光景だった。
 母の姿がなかった。僕は、自宅のリヴィングにいて、ソファに、ぽつんと一人で座っていた。窓の外には、見慣れた三階からの景色が広がっている。空は、ここに来るまでと変わらず、その外側に宇宙の闇があることを忘れさせるほどに青く澄んでいた。
 視線を巡らせて、母を探そうとした。すると、キッチンで物音がした。食器棚の端に人影が見え、僕は思わず立ち上がった。
 <母>はそこに、僕に背を向けて立っていた。ブラウンに染めた髪も、歳(とし)を取って丸みを帯びた背中も、普段着にしていた紺のワンピースも、何もかもが同じだった。
「呼びかけてあげてください。」
 野崎の声が聞こえた。僕は、普段の仕事で、依頼者の指示を受けた時のような錯覚に陥った。それで、自宅は一層、現実感を増した。
 けれども、僕は須臾(しばらく)の間、声が出なかった。野崎に見られているという意識もあったが、それだけではなかった。
 母への呼びかけ以外には、決して口にしたことのなかった「お母さん」という言葉を、母のニセモノに向けて発しようとする僕に対し、僕の体は、ほとんど詰難(きつなん)するように抵抗した。それによって、ニセモノになるのは、お前自身だと言わんばかりに。
 僕はさすがに死後の生を信じないが、もし僕が先に死んで、母が僕ではない誰か――何か――に、「朔也(さくや)」と呼びかけているのを目にしたならば、いたたまらないだろうと想像した。それはもう、僕の知っている母ではないと感じるだろうか?
 それでも、結局、僕は呼びかけたのだった。恐らくは、やはり野崎から見られていて、<母>から、待たれていると自覚したからこそ。
「――お母さん、……」
 それは、驚いたようにこちらを振り返った。――僕は股慄(こりつ)した。固唾(かたず)を呑(の)んで、その顔を打ち目守(まも)った。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

関連キーワード

PR情報