本心<48>

2019年10月25日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第四章 再開

 この蝉(せみ)も、木ではなく、減算時計の針の上に留まって鳴いているのだった。そのことに、卒然(そつぜん)と気づいたかのように、次の瞬間、蝉は唐突に飛び去ってしまった。
 僕は眩(まぶ)しさで、そのあとを追えないことを残念に感じた。いずれにせよ、この日一日の労働の意味は、この一匹の蝉に捧(ささ)げるべきだった。
     *
 <母>との蜜月は、期待したほど単純には続かなかった。
 次いで訪れたのは、当然とも思われる幾つかの幻滅で、寧(むし)ろそれは、最初の受け渡し時に開封し忘れていた、付属品のようなものだった。
 恐らく僕が、ホテルのビュッフェとの比較の話題を、喜びすぎたせいだろう。<母>は、その後の一週間で、二度も朝食時にこの話をし始めて、僕を興醒(きょうざ)めさせた。
 確かに、母も歳(とし)を取るほど、同じ話を繰り返しがちになっていた。しかもその度に、いかにも懐かしそうに語るのだったが、さすがにそれも、年に何度かだった。
 この程度の調整さえなされていないのだろうかと、僕は初めて野崎に不信感を抱き、 V F (ヴァーチャル・フィギュア)の性能に不満を覚えた。本当に、値段に見合う買い物なのだろうか? こういう時、人は却(かえ)って、無駄金を使ったと後悔せぬために、進んでその価値を信じようとするものだが。
「最初はどうしても、違和感があると思いますが、学習が進めば、気にならなくなります。お母様も、今はこの世界に戻って来たばかりですので、リハビリ期間だと思って、優しく見守ってあげて下さい。石川様の表情を見て、受け答えの学習をしますので、何に対しても不機嫌な態度だと、自分の言動に対する否定的なラベリングが増えて、段々と話せることが少なくなっていきます。学習が不首尾の時には、初期設定に戻すことも可能ですし、復元ポイントをその都度、作成しておいていただければ、そこまでのお母様に戻すことも出来ます。」
 野崎は、そう説明した。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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