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追悼・大島康徳さん 悪役を買って出ることのできた打者…最期まで強く生きた人【増田護コラム】

2021年7月5日 12時11分

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中日時代の大島康徳さん

中日時代の大島康徳さん

 気難しい人だと思った。出会いは筆者がドラ番になった1987年。「そう思うんならそう書いとけ」と、いつも手厳しい。取材の仕方が悪いのか、駆け出しのこちらは悩んだ。食事面などで不満を言うため宿舎にしていたホテル関係者の評判もよくなかった。
 いったいどういう人なんだろう。困り顔の筆者を見て、裏方さんが言った。「大島さんの表面だけ見ちゃダメだよ」。例えばなぜ食事に文句をつけるのか? 理由があった。「若手の不満を押さえるためなんだよ。大島さんが言ってくれるんなら、おれたちは黙っておこう、となる。若手が文句を言い出したら収拾がつかなくなるからね」
 当時、ドラゴンズを褒めるのもけなすのも中日スポーツだけ。大島さんは選手の不満が出ると悪役を買って出ていた。それが厳しかった理由だった。なんだ、そうだったのか。本質が分かればもう怖くない。
 根は照れ屋。ある時、ホームランのコメントを取りにいった。「完ぺき? 2割バッターに完ぺきなんかあるか」と、うれしそうに言った。当時は不振を極めて打率1割台に低迷。微妙に数字を盛った大島さんの喜びが伝わってきて、失礼ながら、ほほ笑んでしまった。
 日本ハムへ移籍させた星野監督は「環境を変えてやる必要があった」と言った。この星野さんを兄貴として慕い、理想像として追い求めてきた大島さんは、チームリーダーの立場に苦しんでいた。星野さんはそれを見かねて決断した。
 後日、日本ハムに移籍した大島さんとオープン戦で顔を合わせた。相変わらず悪態をついた後、こう言った。「お前んとこの松野さん(当時の日本ハム担当記者)にいろいろ世話になっとるぞ。ありがたいな」。つき物が落ちたかのような笑顔だった。厳しくあたったことへのお詫びだと受け取った。
 指導者の資質のひとつに悪役になることができる、がある。最期まで強く生きた大島さん。生え抜きではなかったがなるべくして日本ハムの監督になった人だと思う。
 ▼大島康徳(おおしま・やすのり) 1950(昭和25)年10月16日生まれ、大分県中津市出身。中津工ではエースで4番。69年にドラフト3位で中日入団。74年と82年のリーグ優勝に貢献。88年に日本ハム移籍。一塁手、三塁手、外野手を兼務しながら通算2638試合出場で2204安打、382本塁打。引退後は東京中日スポーツ、NHKで野球評論家として活動。2000~02年は日本ハム監督、06年の第1回WBC日本代表では打撃コーチを務めた。

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