本心<45>

2019年10月22日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第四章 再開

 同僚の岸谷の影響も、幾らかあると思う。決して口には出さないが、彼は明らかに憎悪の感情に苦しんでいる。何に対してかはわからない。現状に発しているとするなら、その最も適切な対象とは何だろうか。彼の生い立ちか、政府か、この惨状を招いたトンマな世代の日本人か。……変わった男。彼はいつも、上機嫌だが、それは不機嫌との終わりのないレースのようにも見える。こんなに後先考えずに先行していれば、いずれはどこかで抜き去られてしまうことが目に見えているような、危うい運びのレース。……
 もし仮に、僕の生活に、何か危険が迫るとすれば、きっかけは岸谷だろうと、この日、僕は急に思った。彼が僕に何かをするとは思えない。けれども、彼がつけた何か引っかき傷めいたもののために、僕の生活を覆っている薄い保護膜は、あっけなく裂けてしまうことになるだろう。――妄想は危険だ。近頃では、ただ心の中で抱いていたに過ぎない予感も、なぜかよく当たる、と言われているから。
 目を瞑(つぶ)って、少しうとうとしかけた頃に、<母>からメールが届いた。
「日差しが強いから、十分に水分を補給しなさいね。熱中症になるから。」
 日中の最高気温は、四十度を超えるという予報だった。メールでのやりとりも、<母>の学習の一環だったが、僕は、「お母さん、そんなこと、言わなかったよ。」と書き、「前は、『日差しが強いから、気をつけてね。がんばって!』と言ってたんだよ。」と返信した。訂正文を考えるのは難しい。たまたま、そんなようなことを言われた記憶を、あまり猶予もなく選び取っているようなものだった。
 <母>からはすぐに、「そうね。ちょっとヘンだったわね。ごめんね。」とまたメッセージが届いた。それには、特に返事をしなかった。
 電車の揺れに身を任せながら、僕はまた顔を上げた。車窓から青空を眺めながら、その色が予告する今日一日を想像した。背中には、既にその熱を痛いほどに感じていた。
 依頼者は、上海に住む中国人で、東京に所有している三つのマンションを巡って、郵送物を整理したり、部屋に風を通したりすることになっていた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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