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<聖火移りゆく 五輪とニッポン>第2部 おれについてこい(1)孤高の「鬼」大松監督

2020年2月6日 13時31分 (7月5日 10時53分更新)
 視聴率66.8%は、今も日本のスポーツ中継での最高記録として破られていない。高さ2メートル24のネットを挟む女性の攻防に、国中がくぎ付けとなっていた。
 1964(昭和39)年10月23日午後7時半すぎ、東京五輪閉会式の前夜、女子バレーボール決勝が駒沢屋内球技場(東京都世田谷区)で始まった。
 「東洋の魔女」と呼ばれた日本代表は、宿敵ソ連(当時)を相手に2セット連取。3セット目も11-3と大量リードしながら、1点差まで追い上げられる。
 コートサイドの指揮官は、腕を組んだまま動じない。彫りの深い顔は、無表情でコートを見据える。「鬼の大松」こと大松博文、このとき43歳だった。
 練習が日をまたぐのは当たり前。速射砲のようにボールを投げ付けるレシーブ練習は、見学したプロ野球選手もおののいた。
 14-13のマッチポイントから、なかなか試合を決められない。大松はフェースタオルを片手におもむろに腰を上げ、タイムを取る。
 「おまえら、なに慌ててんのや。落ち着けや」。普段から口数の少ない大松は、諭すようにそれだけ言って引き揚げていったと、コート上にいた松村好子(78)は記憶している。

松村好子が保管している1964年東京五輪の金メダル。半世紀を経ても色あせない=大阪府枚方市で(佐藤春彦撮影)

 試合はソ連選手がネッ...

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