本心<43>

2019年10月20日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第四章 再開

 ふしぎなことに、そこにいた誰かが目にしたような、二人の食事を少し離れたところから見ている光景が、幾度となく脳裡(のうり)をちらついた。
 午前中から夕方まで、都心で仕事の予定があり、食事を済ませるとすぐに家を出た。
 僕は頗(すこぶ)る気分が良く、「いってらっしゃい。」と送り出されたあとは、少し寂しくなった。<母>は、僕が不在の間も、ニュースの学習などを絶えず続けているはずだったが。……
 野崎は、人間が他者に生命を感じ、愛着を覚えるのは、何よりもその“自律性”に於(お)いてだと、経験から、また大学時代以来の研究から、説明した。
  V F (ヴァーチャル・フィギュア)が生きた存在として愛されるためには、こちらが関知しない間に、自らの関心に従って、何かをしていることが重要なのだった。<母>との対面が、いつでもまず、呼びかけから始まるようにデザインされているのは、そうした考えに基づくらしい。
「生きている人間と同じです。試しに、黙ってしばらく側(そば)にいてみてください。途中で気がついて、声を上げて驚くはずです。ああ、ビックリした、いつからそこにいたの?って。」
 勿論(もちろん)、僕が仮想空間にいない間、VFの実体は、母の外観を必要とはしていない。母が自宅で独り、僕の帰りを待っているなどという想像は馬鹿(ばか)げていた。
 それでも僕は、まだ家を出たばかりだというのに、とにかく、早く仕事を終えて帰宅したくて仕方がなかった。母の死後、そんな気持ちになったのが初めてだということは、言うまでもない。
 電車は空(す)いていて、僕はしばらく、「圧倒的実績! 今からでも間に合う! 資産家クラス入りするためのシンプルな5つのメソッド!」といった本の広告を眺めていた。ふと気がつくと、僕の向かいに座る人も、僕の少し離れた隣に座る人も、同じように首を擡(もた)げ、放心したようにそれを見つめていた。僕は、羞恥心の針に胸を刺されたように、咄嗟(とっさ)に顔を伏せた。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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