本心<47>

2019年10月24日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第四章 再開

 母の死後、二年も減っていた僕の寿命は、今朝は九日延びていた。<ライフプラン>の寿命計算の精度に関しては、折々、批判が出て、中には「占い並(なみ)」だと言う人もいる。しかし、案外、正確だというのが、大方の意見で、だからこそ、保険加入時にも参照されている。
 この九日も寿命が延びたという計算が、どうなされているのかは、わからない。環境要因と遺伝要因、それに日々の身体のモニタリングと、自己申告。それらを総合して立てられた予測とされているが、昨夜は三時間しか寝ておらず、普通ならこんな結果が出るはずがなかった。<母>との対話以外には考えられないが、連動の効果としては露骨すぎるだろう。
 僕は、残りの人生の大半を、VF(ヴァーチャル・フィギュア)の<母>と共に過ごすというのは、可能なのだろうか、と考えた。それを、僕は死を前にして、「幸福だった。」と心から思うだろうか?
 地下鉄に乗り換え、目的地の新宿御苑(しんじゅくぎょえん)前の駅で地上に出ると、ゴーグルとイヤフォンを装着して、仕事の準備をした。
 汗が噴き出した。頭上いっぱいに蝉(せみ)の鳴き声が轟(とどろ)いて、一瞬、自分が今どこにいて、何をしているのか、わからなくなった。目眩(めまい)がしたわけでもないのに、世界が急に別の場所にあるような感覚になった。
 ゴーグルを一旦(いったん)外したが、寧(むし)ろイヤフォンだと気がつき、耳から取った。額から流れる汗を拭い、持参した水筒の水を一口飲んだ。
 どこか、姿が見えるほど近くで、一匹の蝉が鳴いている。周囲を見渡し、恐らくこれだろうという街路樹を見つけた。僕は辛うじて、自分を立て直すことが出来た。
 その蝉は、ソリストのように、決して背後の鳴き声に埋もれることなく、通りすがりの僕に存在を示し続けていた。目をよく凝らすと、胴体を激しく顫(ふる)わせているクマゼミがようやく見つかった。
 何の根拠もなく、僕はこの蝉は、もうじき死ぬだろうと感じた。尤(もっと)も、いずれ、長くは生きられない虫なのだから、これは外れる心配のない予想だった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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