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阪神矢野監督が恐れた野村克也さんの鋭すぎる眼と言葉 担当記者が見た師弟物語

2021年6月29日 17時59分

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甲子園球場で開催の野村克也さん追悼試合

甲子園球場で開催の野村克也さん追悼試合

  • 甲子園球場で開催の野村克也さん追悼試合
  • 甲子園球場外周に掲示された「野村語録」
  • 矢野監督
 「優勝チームに名捕手あり」―南海、ヤクルト、阪神、楽天と監督を歴任した野村克也さんの格言である。
 その野村さんの誕生日(1935年)である29日、阪神はヤクルトとの試合を「野村克也氏追悼試合」と銘打ち、甲子園球場で開催。野村さんは昨年2月11日に84歳で死去。今年で生誕86年となる。
 野村さんが阪神監督を務めた1999年からの3シーズン、チームはいずれも最下位と沈みきった。依存しなければならない外国人選手が物足りない成績に終わり、戦力が整わなかったことも一因だった。ただ、野村さんが辞任したのち、阪神は4年間で2度もリーグ優勝を果たすチームとなった。もちろん指揮を執った星野仙一さん(故人)と岡田彰布さんの手腕によるものだが、その土台を築いたのは間違いなく野村さんの功績と言っていいだろう。
 その象徴的な存在が、今は監督を務める矢野燿大(当時は輝弘)。矢野が正捕手に成長し、2度のリーグ優勝でまさしく「名捕手」となった。その一助を担ったのが野村さんであった。取材メモから2人の師弟ストーリーを掘り起こしてみる。
 矢野監督は現役時代、野村語録を恐れていた。指導の根幹を「無視・称賛・非難」としていた野村さん。捕手を「守りにおける監督の分身」と位置付けていただけに、リードがうまくいかなければ矢野監督を非難の的としたからだ。それは愛情の裏返し、独り立ちさせたいからの苦言でもあるが、非難された当人の心は傷つくものである。
 野村さんが監督に就任した1999年。しばらく正捕手不在という事情のなか、年齢順で挙げると定詰雅彦、山田勝彦(現2軍バッテリーコーチ)、矢野(当時30歳)、北川博敏(現1軍打撃コーチ)の4人がその候補だった。
 厳しい言葉を掛けられながらも、矢野は就任直後に作成された「野村の考え」をもとに野村野球を吸収していく。
 「選手として超一流であったうえに監督としても超一流。これまでやってきたことを自分自身のなかで無くし、一から勉強させてもらった」
 ベンチ内で、矢野は必ず野村監督のそばに座った。野村監督のボヤキ、つぶやきを聞き漏らさないようにするためだ。配球の根拠、その打者には絶対に投げてはいけない球、勝負にいくべき球などを称す「まとめ球」やプレーの優先順位など。その一言ひとことに説得力があった。「言い訳は進歩の敵」とした野村監督が、捕手の言い訳を一刀両断する言葉も。それらの一つひとつを心にメモした。
 野村監督が当初、矢野のリードを評した言葉が取材メモに残る。
 「矢野は表街道を歩きすぎ。表と裏の使い分け、つまり押したり引いたりができない」
 リードが無難という言葉もよく聞いた。データだけでなく、打者心理を読んだ組み立てまで求めたのだ。
 打者の小さな動作を見逃すな。野村監督はそう言っていた。どんな球種を狙っているのか、どんな打撃をしようとしているのか、どの方向を狙っているのか。それを斜め後ろにいる捕手が察知しろということである。
 当時、矢野はこう語っていた。
 「監督には、感じろ、と言われてきた。投手心理、打者心理、走者心理。それに打者の動き。漠然と見ていたら見えてこないものが多い。だから感じることを心掛けてきた」
 細心の注意を払いながら投手にサインを送る。打者心理を読めず、痛い目に遭えば、矢野は「僕のミスでした。疑いを持てなかった自分が悪いんです」と責任を負う言葉を口にしたことが何度もあった。
 打撃でも、三冠王の第一号になった野村さんから指摘を受けている。打撃の構えの問題だった。矢野は少し頭をホームベース側に傾けて構えるクセがあった。取材メモにはこうある。
 「目の付けどころ、と言うだろ? 野球の目の付けどころ。キャッチャーって、投手の球がどこへ来ても捕れるやん。だから捕手のように投手の球を見られないか? と思ったら、正対するしかない。矢野にも言ってやった。でも、できないと言う。なんで変わろうとしないのか! 何年かやってできなかったら、やり方を変えてみることや」
 矢野はできないと思っていたことの改良に励んだ。東北福祉大から中日にドラフト2位で入団してから、一度も規定打席に到達したことはなかった。それでも3年目に24試合で打率3割2分3厘、1996年は56試合で3割4分6厘。打撃を買われて外野を守ることもあったほどだが、阪神移籍1年目の1997年は110試合に出場して2割1分1厘と低調だった。
 それが野村監督の就任とともに1999年は3割4厘を記録する。プロ9年目で初めて規定打席にも到達した。その裏には野村監督の温情采配もあった。
 そのシーズンの9月上旬、矢野は横浜(現DeNA)の三浦大輔投手(現DeNA監督)から左手首に死球を受け、左尺骨亀裂骨折。1カ月以上も戦列から離れた。その時点で打席数は417。当時は135試合制で、まだ規定打席に到達していなかった。好打者の勲章となる「3割」確保へまだ1打席だけ足りなかったのだ。
 だからシーズンも残り2試合となったとき、野村監督はまだ普通にバットを振れない状態の矢野ではあったものの、再昇格させた。矢野不在の間に球団ワーストタイの12連敗を喫して最下位に落ちていた。
 その134試合目。本拠最終戦の10月6日、中日戦(甲子園)。送りバントの状況が生まれると、野村監督は矢野を代打で起用した。その1打席でバントを失敗したとしても、3割8毛。結果はともかく、打席に立ちさえすれば矢野には「3割打者」の箔(はく)が付く。
 絶妙の送りバントは内野安打となり、打率は3割4厘に上がった。その後、打てる捕手となったからこそ、矢野は41歳まで20年間、第一線でマスクをかぶることができたのでなかろうか。転機とまでは言わないにしても、正真正銘の3割を確定させる打席には大きな意味があったはずだ。
 ふたりの師弟関係で、筆者にとってはもっとも印象深いエピソードとして残っている。(担当記者・吉川学)

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