本心<44>

2019年10月21日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第四章 再開

 この路線も、かつては毎朝、寿司詰(すしづ)めの状態だったというのは、沿線の高齢者が口を揃(そろ)えて言うことだった。郷愁にも、瑞々(みずみず)しいものと、どことなく干からびたようなものとがあるが、きっとその記憶が含んでいた汁気を、寄って集(たか)って吸い尽くしてしまったせいなのだろう。母もよくそう言っていたが、その時代を、一応、知っているはずの僕は、年齢的にそれを経験しなかった。
 当時は、朝からこんなに疲労が我(わ)が物顔で車内を陣取ることはなかったのだろう。それは、満員の車内で、押し潰(つぶ)される人が眉間に寄せた皺(しわ)や、不機嫌に結ばれた口許(くちもと)に、辛うじて居場所を見つけて、しがみついていたに違いない。
 疲労そのものが、どんな姿をしているのかに、本当に気づいたのは、今のように人気(ひとけ)が引いていってからのことだった。
 なるほど、それには色があった。粗野な圧迫感があり、嫌な臭いがある。あとは、何だろう?……車内は閑散としているのに、寛(くつろ)いだ雰囲気とは、ほど遠い。この時間に、この電車に乗る度に感じることだった。
 結局のところ、人間にとって、真に重要な哲学的な問題は、なぜ、ある人は富裕な家に生まれ、別のある人は貧しい家に生まれるか、という、この不合理に尽きるだろう。
 生の意味、死の意味、時間の意味、記憶の意味、自我の意味、他者の意味、世界の意味、意味の意味、……何を考えるにしても、根本に於(お)いては、この矛盾が横たわっている。そう、幸福の意味でさえも。――
 僕にはわからない。たとえ、富裕であっても、一廉(ひとかど)の知性があれば、この難問に突き当たることなしに人生を終えるのは難しいはずではあるまいか? そして、どんな立場からであれ、このことを考えるのは、一つの煩悶(はんもん)であるはずだ。
 こんなナイーヴな問いは、笑われるというより、寧(むし)ろ、心配される類いのものだろう。遂(つい)にあなたも、精神が破綻したのですね、と少し後ずさりながら憐(あわ)れむ様子で。
 僕の無感動は、かなりよく馴致(じゅんち)されている方だ。だから、生きている。けれども、飼い主が死んだあと、急に人を噛(か)むようになってしまった犬のように、母との会話が失われてからというもの、僕は折々、こんな埒(らち)もない考えの不意打ちを喰(く)らうようになった。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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