本心<51>

2019年10月28日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第四章 再開

 最後の三年間の母との関係は、僕に決してかつてのような安らぎを与えてはくれなかった。
 僕は、自分の矛盾を自覚していた。そもそも、本当に安楽死について知りたいのなら、死の直前の母をこそ、 V F (ヴァーチャル・フィギュア)のモデルにすべきだった。
 ひとまず、復元ポイントだけは作成したが、数日後に、僕が話を切り出したのは、週末の午後、<母>と二人きりでいる時間を、少し持て余していたからだった。些末(さまつ)ではなく、重要な話ほど、意思よりも状況に促される、というのは、逆説的だが本当だろう。
 <母>は、僕を気にせずに、ソファで本を読んでいた。母が生前、愛読していた藤原亮治(ふじわらりょうじ)の『波濤(はとう)』という小説だった。老眼鏡をかけ、眉間を寄せ、やや反らした首を僅(わず)かに傾けながら、物思う風の表情だった。
「お母さん、……」
 と、僕はいつものように呼びかけた。母との間で、この話を蒸し返す時に、いつも感じていた不安で、胸が苦しくなった。
「ん、――何?」
 <母>は、穏やかな表情で顔を上げ、僕を見た。
「……安楽死について、どう思う?」
「安楽死?」
 <母>は、確認するように言った。
「そう、安楽死。」
「さあ、……お母さん、その言葉はちょっとよくわからないのよ。朔也(さくや)、説明してくれる?」
 それは、返答できない時の<母>の反応の一つだった。しかし、説明しようとする僕は、込み上げてきた涙に、口を塞(ふさ)がれてしまった。
「……知らないの? 本当に?」
 <母>は、助けを求めるように、困惑を露(あら)わにした。
「お母さん、その言葉はちょっとよくわからないのよ。朔也、説明してくれる?」
「お母さん、安楽死したがってたんだよ。僕に何度もそのことを話して、……覚えてないの?」
「お母さんが、朔也に言ったの? そうだったの。ごめんなさい、忘れてて。」
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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