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中日・与田監督、「失望するなかれ」…諦めた投手の道を剛に託し47歳で逝った父 病を押し息子と訪れた神宮球場

2021年6月21日 09時59分

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ヤクルト―中日 試合に敗れ、引き揚げる与田監督

ヤクルト―中日 試合に敗れ、引き揚げる与田監督

◇渋谷真コラム・龍の背に乗って ◇20日 ヤクルト2-1中日(神宮)
 代打攻勢で2点をもぎ取られ、予想外の継投で逆転の芽を摘まれた。ポイントは8回、1死一、三塁。リーグトップの22ホールドポイントの清水を、高津監督はスパッと代えた。打者はビシエド。3番手は同じ右の梅野。不動のセットアッパーといえども、恐れず動く。中日に傾いていた流れは、この高津采配にせき止められた。
 父の日。与田監督の父・健児さんが大好きだったのは「巨人、柏戸」だった。だから娘2人に続いて授かった待望の息子には、横綱と同じ「剛」と名付けた。北九州で育ち、新日鉄君津に勤めていた製鉄マンは、自らがあきらめた投手の道を剛に託した。父から渡された左投げ用のグラブを、5歳の剛少年は無理やり左手にはめた。社宅前の広場でやった親子のキャッチボールが、野球の原風景であり、当時のグラブは今も大切な宝物だ。
 父の病気を知らされたのは8歳のとき。ガンだった。入退院を繰り返し、父は痩せていった。あるとき、キャッチボールの球が父の体を直撃した。息子は成長し、父は衰弱する。いつしか、自分の球を受け止めることも難しくなっていた。
 誰にも負けない強肩を持ちながら、制御不能。ついに中学ではエースにはなれなかった。家計を案じ、高校には進まず「大工になろうか」と言い出した。「おまえの人生だから好きにしていいんだぞ」。本当は野球をやりたい息子の気持ちを、父は見透かしていた。
 この日戦った神宮球場は、与田親子にとって思い出の場所だ。医師の制止を振り切り、病院から亜大の入学式に駆けつけてくれた帰り道に、3人で立ち寄った。しかし、息子が東都リーグで投げる姿を、健児さんは見ていない。入学式直後に容体は悪化。2カ月後の1984年6月、長い闘病生活は終わりを告げた。47歳だった。
 4カード連続負け越し。そんな今だからこそ、思い出してほしい。父が病と闘っていた中学生のころ、巡り合ったあの言葉を。「失望するなかれ」。逆境は必ず乗り越えられる。

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