本心<52>

2019年10月29日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第四章 再開

「違うよ、そんなことを今確認しようとしてるんじゃないんだよ! そういうことを考えたり、誰かと話したことがなかったかって、そのことを訊(き)いてるんだよ。……安楽死っていうのは、自分で自分の人生をお終(しま)いにすることだよ! 辞書にも載ってる。……お母さん、どうしてそんな決心をしたの? 僕はそれを知りたいんだよ!」
 僕は到頭(とうとう)、声を荒らげてしまった。もう語りかけることの出来ない母への思いと、<母>に対する苛立(いらだ)ちとが綯(な)い交ぜになっていた。
 <母>は、怯(おび)えたような驚いた様子で、
「ごめんなさい。でも、お母さん、安楽死のことは、何も知らないのよ。」
 と謝った。僕は、反射的に、
「お母さん、そんなこと、言わなかったよ!」
 と口走った。しかし、続く訂正の言葉は出てこなかった。
「……言わなかった。それはお母さんの口調じゃないんだよ。……」
 僕は、ヘッドセットを外してテーブルに放り投げた。そして、頭を抱えて首を横に振った。イヤフォンからは、<母>が何かを言っている声が洩(も)れてきたが、僕はそれを掴(つか)むと、<母>が座っていて、今は誰もいないソファに投げつけた。
 母が死んでから、こんなに感情を昂(たか)ぶらせたのは、初めてだった。あまりにも滑稽だったので、我が身に危険なものを感じた。
 最後に目にした<母>の悲しげな顔が、生々しく残っていた。それが、僕に決して安楽死を許されなかった母の表情と溶け合うなりゆきに、僕はいよいよ打ちのめされた。

第五章 “死の一瞬前”

 僕はそれで、もう<母>に嫌気が差してしまったのか?――答えは否だった。
 なぜなら、僕の生活には、そもそも、もうそれほど、後退(あとじさ)れる余裕がないのだから。背後にすぐに、たった独りになってしまう、という孤独が控えている時、人は、足場が狭くなる不自由よりも、とにかく何であれ、掴まる支えが得られたことの方を喜ぶものだろう。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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