本心<54>

2019年10月31日 02時00分 (5月27日 03時48分更新)

第五章 “死の一瞬前”

 <母>と対話し、学習に協力してもらうかどうかはともかく、僕は、母の内心をそれぞれに違った立場でよく知っていたであろう二人の人物と、面会の約束を取りつけた。
 一人は、富田という名の母の主治医だった。母に、安楽死の許可を与えた人だった。
 僕は、母からその希望を聞かされたあと、一度、彼に会っていて、かなり感情的なやりとりをしている。取り乱したのは、僕の方であり、というのも、母の安楽死を認めないでほしいという僕の願いに対して、彼は、冷淡だっただけでなく、主治医の自分こそは母の味方であり、無理解な親族――つまり僕――から彼女の権利を保護する義務があるという態度を示したからだった。
 そして、僕が傷ついたのは、母がこんな人物を、深く信頼していたことだった。
 もう一人は、母が最後に働いていた旅館の同僚だった。
 三好彩花(あやか)という名の女性で、野崎の分析では、ここ数年、母が最も親しくつきあっていた人だった。
 母は、職場での人間関係について口にすることはほとんどなかったが、確かに、彼女の名前は、何度か、耳にしたことがあった。仕事のあと、一緒に食事に行くこともあったようだった。
 野崎の整理のお陰(かげ)で、僕は、母のライフログに、部分的にでも手を着ける意欲を取り戻した。
 母は、旅館従業員のシフト調整に関わっていて、四、五人の同僚と頻繁にメールのやりとりをしていたが、その中でも、三好とだけは、事務的な連絡とは別に、折々、私語めいた話を交わしていた。
 三好宛のメールには、絵文字がふんだんに用いられていて、確かにそれは、僕の知らない母の一面だった。明るく若やいでいて、幾らか無理をしている感じもしたが、入力をしている時の母を想像すると、やはり笑顔が浮かんだ。適当な表現ではあるまいが、“女同士”という感じがした。相手はずっと敬語を使っているので、かなり年下のようだが。
 僕が目を留めたのは、中でも、三年前に、三好から送られてきた一通だった。
「今日は、本当にありがとうございました!」
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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