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滑川の詩人「伝えたい」 著者・伊勢功治さん15年かけ

2021年6月12日 05時00分 (6月12日 11時34分更新)

◇評伝「北方の詩人 高島高」

 戦前にモダニズム詩人としてデビューして、期待されながら郷里・富山県滑川市で医師となった高島高(たかし)(一九一〇〜五五年)。その生涯を膨大な資料からひもといた評伝「北方の詩人 高島高」(思潮社)が出版された=写真。著者は同郷でグラフィックデザイナーの伊勢功治さん(東京都)。伊勢さんは「自然を詠みながら、叙情に流されることなく、人間の底にある厳しさを詩にした高島という詩人がいたことを知ってもらえれば」と話す。(松岡等)
 高島は開業医の家に生まれた。十三歳で母を亡くし、文学に傾倒。一方で医師となることを要請され、昭和医学専門学校(現昭和大医学部)で学ぶが、私家版の詩集を出すなど文学はあきらめていなかった。二八年に創刊した詩誌「詩と詩論」が当時の詩壇をリードしたが、そのメンバーだった北川冬彦が高島の詩を高く評価。高島の第一詩集「北方の詩」には、北川とともに萩原朔太郎が序文を寄せた。その中で萩原は高島を「鴉(からす)のような詩人的風貌」といい、その詩を「ニヒリストの哀切な悲歌」と評した。

大学を卒業し、詩人としてスタートしたころの高島高(1936年ごろ)

 北アルプスの厳しい自然を峻烈(しゅんれつ)な詩句にした高島。東京時代は佐藤惣之助、高橋新吉、山之口貘、高見順といった詩人、文化人と交流した。特に山之口とは濃密で、佐藤春夫や金子光晴にも才能を認められながら、底のない靴を履き、放浪生活を送っていた山之口との友情が、さまざまなエピソードとともに活写されている。
 伊勢さんが高島について関心を寄せたのは、詩集などのブックデザインも手掛ける中で日本のモダニズム詩を調べるうち、高島の名前が頻繁に登場することに気付いたことから。同郷で、自身の小学校の校歌の作詞者でもあった。
 地元では詩碑もあり、医師、文化人として知られていたが「没後六十五年をへて知る人も少なく、伝える人がいない現状が残念だと思っていた。東京時代について知られていなかったことも分かり、自分がやろうと思った」と、十五年をかけて評伝を執筆した。
 高島の詩には「北方」という言葉へのこだわりがある。伊勢さんは「今は東京から見ても富山が『北方』という感じはないかもしれないが、高島が学生時代に住んでいた感覚として、故郷の富山は『北』であったのでは」という。それは高島の富山からの東京への強い思いの裏返しだったのかもしれない。
 遺族から借り受けた膨大な手紙やスクラップ、写真など膨大な資料から、詳細な年譜、書誌、全国の交流作家一覧、交流図も資料として添付、装丁も手掛けた。富山の文化に貢献した人に贈られる翁久允(おきなきゅういん)賞も受賞した。四六判、三百十九ページ。三千二百円(税別)。

【プロフィール】たかしま・たかし=1910(明治43)年富山県滑川市生まれ。旧制魚津中学(現魚津高校)卒。昭和医学専門学校(現昭和大医学部)に進む一方で詩人北川冬彦に認められ、詩誌「麺麭(パン)」同人として活躍。山之口貘ら数多くの詩人、文化人とも交流した。38年に第一詩集「北方の詩」をボン書店から刊行。開業医だった父の病から帰郷し、翁久允主宰の郷土史研究誌「高志人」に寄稿するなどした。55(昭和30)年に44歳で死去。詩集に「山脈地帯」「北の貌」「北の賛歌」など。

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