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【石川】小松山 心優しき業師 旧満州巡業中 子ども襲ったクマ撃退

2021年6月5日 05時00分 (6月5日 10時05分更新)

小松山について語る次男の竹田貞夫さん=石川県小松市で

◇戦前戦中に活躍 能美の力士
◇新聞投稿 契機に「地元の誇り」再び光を

 北海道北部の名寄(なよろ)市で発行する日刊紙「名寄新聞」に今年三月、戦中の旧満州(中国東北部)であった大相撲巡業で、一人の力士がクマを撃退して現地の子どもを助けた状況を目撃した男性の投稿が掲載された。しこ名は小松山。戦前、戦中の角界を彩った、石川県能美市(旧寺井町)出身の幕内力士だ。名寄市の知人を通じて郷土力士の存在を知った石川県の会社役員から先月、「小松山という力士がいたことを広く知ってもらいたい」と、本紙に名寄新聞のコピーが寄せられた。引退から七十六年がたつ今、関係者を訪ね、改めてその人柄をしのんだ。(高橋広史)

▼礼の金一封 辞退

 投稿したのは名寄市在住の斎藤一郎さん(93)。斎藤さんの記憶では、一九四二(昭和十七)年か四三年の出来事だったという。
 旧満州に渡っていた十代の斎藤さんが、チチハルで大相撲巡業を見学した時のことだ。会場の公園にあった動物園のようなおりの柵越しに、小学一年生くらいの女の子がクマに服をくわえられ、中に引き込まれそうになった。駆け付けた小松山が近くにあった丸太でクマをひと突き。クマがひっくり返った間に、みんなで少女を助けた。

重さ8トンの手取川の自然石で1985年に建立された小松山顕彰碑とおいの田上顕さん=石川県能美市で

 チチハルの市長が、土俵上で小松山に感謝状と金一封を渡した。投稿文はこう続く。「小松山は感謝状は嬉(うれ)しく戴(いただ)くが金一封は、そのまま少女のために使ってください−と言い、会場は割れんばかりの拍手が爆発した」。斎藤さんは本紙の取材に「あの日だけは、ヒーローは横綱双葉山ではなく、小松山だった」と振り返る。
 投稿を読み、情報を本紙に寄せた石川県白山市の笠間製本印刷会長の笠間史盛(てるもり)さん(76)は、さらりと金一封を辞退したことに心が動かされたという。「相撲どころ石川に、善意あふれる力士がいたことを誇りに思う」と話す。

▼最盛期 横綱破る

 小松山はどんな力士だったのか。生まれ育った能美市小杉町のさくら公園には八五年に建立された顕彰碑がたたずむ。二〇一三年の生誕百年に合わせて碑の裏側に設置された石板には「温厚な性格ながら、生来の相撲勘のよさは抜群で土俵では多彩な技を繰り出し−」と刻まれている。
 最高位は西前頭三枚目。一七〇センチ、一〇一キロと体は小さかったが、最盛期の一九四一年一月場所では二メートル近い横綱男女ノ川(みなのがわ)をすくい投げで破った。日本相撲協会に金星の映像は残っていないが、当時の雑誌などによると小股すくいや肩透かしなどを得意とする業師だった。
 郷土の偉人を後世に伝えようと二〇一三年に冊子「小松山その相撲人生の軌跡」を発行した能美市小杉町の北本一哲(かずのり)さん(81)は今は鬼籍に入った地元関係者を含め、聞き取りに当たった。「肌が白くてきれいで、相撲を取ると赤くなっていく。いい男で女性に人気があったそうです」と語る。
 小松山のおいの山田正二(まさじ)さん(93)と田上顕(あきら)さん(80)が今も小松山の生家跡の近くに住む。地元で旧満州のエピソードは知られていないが、「おっちゃん」と呼んでいた田上さんは「地元に戻ってくるとよくお小遣いをくれ、優しかった」と在りし日を懐かしむ。
 優しさは、元大関豊山でのちに時津風理事長となった内田勝男さん(83)の証言からも浮かび上がる。小松山は引退後、井筒部屋付きの甲山(かぶとやま)親方として長く勝負検査役(現在の審判委員)を務め、一九七二年に五十九歳で亡くなった。二回り年下ながら、時津風一門の代表として葬儀委員長を務めたのが当時の時津風親方の内田さんだった。「私が現役の時、一門の連合稽古で、甲山さんによく声を掛けてもらった。多くを語るタイプではなかったが、包み込むようなアドバイスが強く印象に残る」と述懐する。

▼病室でも気遣い

 東京で育ち、現在は石川県小松市符津町に住み、同市聴覚障害者福祉協会会長を務める小松山の次男、竹田貞夫さん(65)にとっても、心優しい父だった。貞夫さんは一歳の時、聴覚を失っている。父とのコミュニケーションは主に口話だった。
 高校に入学する春、スキーでけがをして都内の病院に入院し、がんを患っていた父と同じ病室でベッドを並べた。地方場所や地方巡業で自宅を不在にすることの多かった父との濃密な時間は、楽しくもあったという。「大丈夫か、と僕のことばかり気遣ってくれた」。貞夫さんは一週間で退院できたが、父は一カ月後に帰らぬ人となった。
 永眠から四十九年。「気は優しくて力持ち」を絵に描いたようなクマ撃退のエピソードを初めて知った。「父のことながら、感動した。お金を受け取らない振る舞いが立派だったとうれしく思う」と手話で語った。

【プロフィール】小松山貞造(こまつやま・ていぞう) 本名竹田貞造。1913〜72年。31年1月井筒部屋から初土俵、37年5月新十両、40年1月新入幕、45年11月引退。現役時代はほぼ年2場所制で、幕内在位11場所。同じ一門の横綱双葉山の土俵入りでは露払いを務めた。引退後は年寄甲山を襲名。井筒部屋付きの親方として、同世代の元前頭2枚目鶴ケ嶺の井筒親方を支え、元関脇鶴ケ嶺らを育てた。明治期には石川県小松市出身の小松山与三松という幕内力士がいた。

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