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どう生きる どう支える  人工呼吸器で11年 故・押富俊恵さんが問いかけたもの

2021年5月25日 05時00分 (5月25日 10時15分更新)

 

 全身の自由が次第に奪われる神経難病。その過酷さから延命治療を選択しない人も多い。しかし、四月二十三日、肺炎のため三十九歳の若さで亡くなった愛知県尾張旭市の押富俊恵さんは人工呼吸器を着け、電動車いすで生活しながら、障害者を支援するNPO法人を設立。「自分のことは自分で決める」という流儀を貫き、それが当たり前になる社会を目指した。生前の講演会での言葉などから考える。 (編集委員・安藤明夫)

障害者本人の意思 最優先に

 慣れない手つきで車いすを走らせる子ども、アイマスクを着けて着替えの速さを競う人…。二〇一七年から同市で毎年秋に開かれていた「ごちゃまぜ運動会」は、押富さんが結成したNPO法人ピース・トレランスの看板イベントだった。
 法人名は、英語で「平和と寛容」の意。運動会は障害の有無に関係なく、「ごちゃまぜ」になって楽しむことを目的に掲げた。「障害者が暮らしやすい地域づくりの第一歩は、特に子どもたちに不便さを感じてもらうこと。運動会はライフワークでした」と、事務局長の河内屋保則さん(64)は振り返る。
 押富さんが、国指定の難病、重症筋無力症と診断されたのは、作業療法士として病院で働いていた二十四歳の時だ。一年後、症状が進んだため気管を切開して人工呼吸器を使うように。二十八歳で二十四時間手放せなくなった。喉の空気を使って話せるようにはなったが、医師に「一生、病院か施設で暮らすしかない」と言われ、同意した。
 転機は三十一歳の時。「どうしたい?」。新たに担当になった医師が、意思を確認してくれた。正直に「帰りたい」と伝えたところ、みるみるうちに在宅復帰への環境が整った。病院などでできる医療の多くは在宅でも可能だが、医師の知識量や経験値によって判断が変わる。昨年九月にあった講演会で、押富さんは「それで将来が決まってしまうのは理不尽」と訴えた。
 この出来事を含め、一六年のNPO設立を後押ししたのは「障害者の意思は、健康な人に比べて軽く扱われがち」という思いだ。例えば、在宅療養になってから長く利用した介護ヘルパー派遣の事業所との契約をやめる時。相手がサインを求めたのは、同居する母親だった。抗議すると「障害者には保護者が必要」と言い返されたという。
 自分のことは自分で決める−。発達支援・放課後デイサービスを提供するNPO法人「にこまる」代表、広中志乃さん(45)は、そうした考えを受け継いだ一人だ。押富さんには非常勤の作業療法士として月二回、障害のある子への指導、スタッフへの助言を頼んできた。紙工作の際の手順書を作った時の言葉が印象に残る。「まずは子どもに、どの色を使って作りたいかを聞こう」。広中さんには脳障害で車いすを使う長男がいるが「いかに息子の思いを考えずにいたか。反省させられた」と懐かしむ。
 押富さんは、何より自分の生活の質を大事にした。在宅医療を担った同県長久手市の在宅診療所・たんぽぽクリニックの服部努院長(55)は「制約の多い入院を嫌がった」と振り返る。肺炎の悪化による救急搬送は年に五回以上。原因不明の激痛に苦しみ、医療用麻薬も使っていた。それでも、ある程度のリスクは覚悟の上で、やりたいことをやらせてくれるよう望んだ。
 全国の障害者数は約九百六十五万人。押富さんは生前、さまざまな講演会で呼び掛けた。「支援する側にとっては仕事の一環かもしれないが、される側にとっては一生の問題」。支援者の想像を超えた地域での生活があることを、自ら証明した人生だった。
 

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