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連載「災とSeeingさいとシーイング」 東海地方の災害の歴史、動画と文章でたどる

2021年6月4日 19時00分 (10月4日 16時02分更新)

第1回 清洲きよすし(1610年、名古屋市と清須市)


 江戸時代初めに、徳川家康が尾張・清洲の城下町を名古屋に丸ごと移した「清洲越し」。その理由としては、低地に位置し、水害への不安があったとされる。加えて一帯は軟弱な地盤で、大地震に伴って液状化現象が起きた痕跡も見つかっている。「清洲越しは、地盤が強固な高台への移転。今で言う『事前復興』だった」と指摘するのは、名古屋大減災連携研究センターの福和伸夫教授。現地をともに歩き、「家康の一大プロジェクト」を防災の観点からひもといてもらった。(中日新聞4月5日の記事はこちら

第2回 入鹿いるかれ(1868年、犬山市や扶桑町、江南市)


 ワカサギ釣りの名所として知られる愛知県犬山市の入鹿池。ほとりには貸しボート店が並び、静かな水面をボートが行き交う。満水時の広さは東京ディズニーランド約3個分にあたる約150ヘクタール。国内最大級の大きさのため池だ。明治に改元される直前の1868年7月に起きた大水害は「入鹿切れ」と呼ばれる。名古屋大減災連携研究センター特任教授の利藤房男さんと入鹿池などを歩いた。
中日新聞5月3日の記事はこちら

第3回 伊賀いが上野うえのじょう三重みえけん伊賀いが


 忍者の里として知られる三重県伊賀市。中心部の高台に立つ伊賀上野城は、白く美しい三層の天守閣から「白鳳城」とも呼ばれる。築城の名手として知られる藤堂高虎が本丸西に築いた「高石垣」が有名で、大阪城と日本一、二を競う高さ約三十メートルを誇る。「実はこの城内や城下町は、一八五四年に起きた『伊賀上野地震』で大きな被害を受けたんです」。今回案内役を務めてくれた名古屋大減災連携研究センター特任准教授の菅沼淳さん(54)が教えてくれた。(中日新聞6月7日の記事はこちら


第4回 明治めいじ29ねん洪水こうずい岐阜ぎふけん大垣おおがき


 地下水が豊富であちこちに湧き水があり、「水の都」と称される大垣市。中心部にある大垣城は、地域のシンボル的存在だ。その天守の石垣に直線が刻まれた部分がある。石垣の下端からの高さは一・二メートル。一八九六(明治二十九)年の大洪水時に「大垣輪中堤防委員長」として指揮を執った金森吉次郎が刻んだものだ。この線の高さまで浸水したとされる。この洪水では、七月の低気圧、九月の台風という記録的な二度の豪雨で、集落などを囲んだ輪中堤が決壊。大垣を中心とした輪中地域に大きな被害を出した。(中日新聞7月5日の記事はこちら


第5回 濃尾のうび地震じしん(1891年、岐阜ぎふ本巣市もとすし


  「名高き金の鯱(しゃちほこ)は 名古屋の城の光なり 地震の話まだ消えぬ 岐阜の鵜飼(うかい)も見て行かむ」。「鉄道唱歌 東海道篇(へん)」(一九〇〇年発行)三十四番の歌詞に、明治中期に起こった濃尾地震の記憶が刻まれている。東海道線全通の二年後に襲った強い揺れで、岐阜市と岐阜県瑞穂市を結ぶ長良川にかかる橋が落ちた。(中日新聞8月2日の記事はこちら


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 岐阜羽島と米原間の東海道新幹線の車窓から見たことがあるという人も結構多いはず。巨大な船のような外観が目を引く太陽光発電施設「ソーラーアーク」。施設が立地するのが岐阜県南西部の安八町だ。揖斐川と長良川に挟まれた南北約九キロの細長い地域で、海抜は四〜六メートル。昔から水害に悩まされてきた歴史を持つ。(中日新聞9月1日の記事はこちら


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 ふっくらとした身に食欲そそる甘辛のたれ、白米とともに口に運べば、気分も、うなぎ上り−。養殖ウナギの生産で有名な愛知県西尾市一色町。三河湾に面し、豊かな海産物に恵まれ、アサリやえびせんべいなども有名だ。新鮮な魚介類などが並ぶ「一色さかな広場」は、取れたての味を楽しめる。海の恵みを享受する一方、西尾市は高波や津波災害への備えも気にしなくてはいけない沿岸地域を抱える。(中日新聞10月4日の記事はこちら




災とSeeingさいとシーイングで取り上げた場所の地図(作成:中部地域づくり協会)


◆「中部災害アーカイブス」でも、中部地方で起きた過去の災害を知ることができます。中部災害アーカイブスは、中部地域づくり協会が作っています。
◆ 名古屋大学の減災連携研究センターのサイトにも、災害の情報が集まっています。

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