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浜岡停止10日間の攻防(2011・4・27~5・6)

2021年4月27日 10時14分 (4月27日 10時14分更新)
 東京電力福島第一原発事故後を受け、当時の菅直人民主党政権が運転停止を要請した中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)。中電は要請を受け入れ、2011年5月14日に全面停止しました。あれからまもなく10年、東海地震の震源域に立地する浜岡は依然として動いていません。事故や不祥事を起こしていない運転中の原発が超法規的な措置で止まるのは初めて。ところが、水面下では、浜岡停止と引き換えに他の原発の早期再稼働をもくろむ経済産業省と、政権浮揚につなげようとする首相官邸との間で激しい攻防がありました。権力の中枢で何が起きていたのでしょうか。その舞台裏を探った本紙の過去記事「浜岡停止10日間の攻防」(12年4月11日付)を再掲し、日本の原子力政策についてあらためて考えます(肩書・年齢は当時、敬称略)。

浜岡停止をめぐり激しい議論が交わされた首相官邸。右から時計回りで、菅直人首相、海江田万里経産相、細野豪志首相補佐官、枝野幸男官房長官、仙谷由人副長官(いずれも当時)

再稼働のシナリオ

 二〇一一年四月二十七日午後五時すぎ、東日本大震災後初となる政府の中央防災会議が首相官邸二階小ホールで開かれた。
「あすで東日本大震災から四十九日になります」。首相の菅直人(65)があいさつした。東北から太平洋沖の地震対策が議題となり、関係閣僚や学者らが顔をそろえた。経済産業相の海江田万里(63)は菅の正面に座った。
 地震が専門の東大名誉教授、阿部勝征(67)らが説明役を務めた。「三ページ目をご覧ください」。海江田が配布された資料を一枚めくると、東海地震三十年以内の発生確率87%」とあった。原発所管の大臣として、震源域に中部電力の浜岡原発が立っているのは前から知っていた。しかし、福島事故を目のあたりにした直後。「87%の数字は衝撃だった」
 散会後、海江田は席を立った官房副長官の仙谷由人(66)に歩み寄った。「やっぱり、浜岡は危ないよね」。独り言のようにつぶやく海江田に、仙谷は「そうやなぁ」。二人は黙って会場を後にした。
 官邸から経産省に戻る車中。海江田は資料を再びめくった。「東海地震」「87%」「南海トラフ」……。浜岡の危険性を連想させるキーワードが脳に刻まれた。秘書官の佐脇紀代志(43)は「大臣は黙って資料に目を落としていた」。
 中央防災会議の翌二十八日。海江田は、震災復興の補正予算案を審議する衆院予算委員会など国会日程に追われた。夜遅く経産省本館十一階の大臣室に戻り、事務次官の松永和夫(60)を呼んだ。時計は午後十一時に指しかかろうとしていた。
 海江田は単刀直入に切りだした。「浜岡を止めた場合の影響を、省内の一部の者だけで検討してみてくれ」。官僚の抵抗があるのではないか、と心配したが、松永は意外にもあっさり応じた。
「中電は原発依存度が関西電力などと比べて低い。どうしても止めたいのであれば何とかできます」
 松永には、思惑があった。世論の反対が強い浜岡の運転をやめれば、国民の不信感が和らぎ、他の原発の再稼働に道が開ける―。松永は「浜岡を止めて、他を立ち上げるシナリオを詰めてみたいのですが」と申し出る。
 海江田は黙って、うなずいた。ただ、話が少しでも漏れれば、電力業界などの反発でつぶれかねない。官邸の情報管理を疑っていた海江田はこう付け加えた。「サプライズ(驚き)が必要だ。絶対秘匿、官邸には漏らすな」
 夜が明けた二十九日午前、経産省内で浜岡停止の検討が始まった。参加したのは松永を筆頭に、一握りの大臣官房や原子力安全・保安院(現・原子力規制委員会)幹部だけ。中電社長の水野明久(58)が前日、定期検査で停止中の浜岡3号機を七月に再稼働することを表明し、対応を急がねばならなかった。
 最大の問題は、浜岡を停止させる法的根拠だった。松永は、部下の保安院幹部から「原子炉等規制法や電気事業法の安全規制法令では、停止命令を出すことはできない」と報告を受けていた。
 再び大臣室に足を運んだ松永は海江田にこう伝えた。「事故があったり、トラブルがあれば止められます。しかし、それがないので、大臣による行政指導しかありません。中電が従うかどうかは分かりませんが……」
 それを聞いて海江田は、ちょっぴり不安になった。

菅首相(当時)の要請を受け、2011年5月に運転を全面停止した浜岡原発=静岡県御前崎市で

浜岡原発 静岡県御前崎市に立地する中部電力唯一の原子力発電所。1号機(発電量五十四万キロワット)は一九七一年三月に着工し、七六年三月から運転を開始。七八年十一月に2号機(八十四万キロワット)、八七年八月に3号機(百十万キロワット)、九三年九月に4号機(百十三・七万キロワット)、二〇〇五年一月に5号機(百三十八万キロワット)が運転を始めた。〇八年十二月に1、2号機は耐震工事に多額の費用がかかり採算が合わないとして廃炉を決めた。

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