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松山英樹が10回目でつかんだマスターズのタイトルは”4つの転機”が結実して成し遂げたものだ

2021年4月12日 11時49分

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マスターズを制した松山英樹(AP)

マスターズを制した松山英樹(AP)

◇ヘンリー鈴木のスポーツ方丈記
 世界のゴルファーたちのあこがれの舞台であるマスターズを、松山英樹がついに制しました。プロをしのぐ実力と実績を持ちながら生涯アマチュアを貫いた”球聖”ボビー・ジョーンズが1934年に大会を創立してから87年。マスターズはもちろん、日本男子が米メジャー大会を優勝したのも初の快挙です。
 最終日の後半は何度も試練に襲われました。それでもジョーンズが設計に関わったオーガスタナショナルGCの精霊は、最後まで松山を見放しませんでした。「パトロン」と呼ばれるオーガスタのギャラリーたちに祝福される中で目に涙を浮かべた松山の姿は、日本のスポーツ史に永遠に刻まれることでしょう。
 29歳となる今まで、松山は山あり谷ありのゴルファー人生を送ってきました。その中で世界の頂点に立つまでには、4つの転機があったと思います。
 最初はアマチュア時代。高校1年でプロツアーを優勝した同年代の石川遼がスターダムにのし上がっていくのを横目で見ながら着実に力をつけていった松山は、東北福祉大に在籍していた2011年に初出場したマスターズでローアマ(ベストアマチュア)を獲得。東日本大震災の直後にもかかわらず試合に送り出してくれた周囲の支えに感謝し、自分が試合に勝つことがその人たちに報いることだと思うようになります。ところが翌年は最終日に大崩れし、期待を裏切ったことに大粒の涙を流しました。オーガスタの、そしてゴルフの本当の怖さを知ったのです。
 2つ目は16年10月、埼玉県の狭山GCで開催された日本オープン。同年に米ツアー2勝目を挙げて凱旋(がいせん)した松山は、「その実力をこの目で見たい」と1万人を超える大ギャラリーが連日詰め掛ける中で同オープンを初優勝します。試合後は「米国でこれだけ注目されることはない。言葉が分かるから声援の内容も分かる。だからふがいないプレーはできなかった」と話し、一打一打に大きな重圧がのし掛かる中で勝てたことは、その後の自信につながっていきました。
 3つ目は翌17年の全米プロゴルフ選手権。最終日を首位で折り返し、念願の米メジャー優勝を視界にとらえながら、後半を5ボギーで5位に終わりました。試合後はタオルで顔を覆って「勝てる人になりたい」と嗚咽(おえつ)し、メジャーの壁の高さを思い知ることになります。
 そして4つ目は、日本で初の男子米ツアー開催となった19年10月のZOZOチャンピオンシップ(千葉県・習志野CC)。ここでも松山はギャラリーの期待を集めて優勝争いを繰り広げながら、タイガー・ウッズに届きませんでした。米ツアー歴代最多に並ぶ82勝目を挙げたウッズは、マスターズ5勝を含む米メジャー通算15勝。その底力と集中力に、自分に足りないものを追い求めました。
 アマ時代を含めて10回目の挑戦でつかんだマスターズ王者は、これらが結実して成し遂げたものです。
 ゴルフに本格的に打ち込むようになったのは、小学校1年の時に地元愛媛県のゴルフ場で青木功プロが練習しているのを見た時から。木陰でのぞき見ていた松山少年に気付き、呼び寄せた青木プロは、目の前で「世界一」と言われたアプローチの技術を披露してくれたといいます。
 日本男子初の米ツアー優勝を1983年に遂げたレジェンドに導かれて世界を目指すようになった松山は、この日の現地テレビ局のインタビューに「日本の選手が勝てないと言われてきたメジャーに僕が勝ったことで、日本の選手がこれから変わっていくのではないか」と答えていました。ゴルフは個人競技だが、一人でやっているのではない。引き継ぎ、引き継がれていくことの大切さが、優勝の感動に花を添えてくれます。
 ◆ヘンリー鈴木(鈴木遍理) 東京中日スポーツ報道部長、東京新聞運動部長、同論説委員などを経て現東京中日スポーツ編集委員。これまで中日ドラゴンズ、東京ヤクルトスワローズ、大リーグ、名古屋グランパス、ゴルフ、五輪などを担当。
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